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ティーレマンとウィーン・フィル
28日、19時半よりウィーン楽友協会大ホールにて、クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルのコンサートを聴く。曲目はオール・ベートーヴェン・プログラムで、交響曲第1番と第2番。

今回のこのコンサートは、この後来月行われる日本公演での「ベートーヴェン・ツィクルス」の準備としても行われたもので、いわゆる「前哨戦」に注目が集まった。

筆者は、ティーレマンとウィーン・フィルの「ベートーヴェン・ツィクルス」(この公演の模様は、CDおよび映像収録された)のなかで、2009年11月の第7番と第8番、2010年4月の第5番と第6番、そして第9番をここ楽友協会大ホールで聴いている。今回、26日の前回のコンサートと今日のコンサートで、筆者のウィーン楽友協会における、ティーレマンとウィーン・フィルによるベートーヴェン・ツィクルスがいよいよ「完結」するのだ。

ただし、この公演のチケット争奪戦は凄まじく、ゲットするまで大変な苦労だったのだが、それもそのはず、この公演はウィーン・フィルのソワレ(夜)定期のコンサートで、一般売りが極めて限られているために、会員以外では滅多に聴かれないコンサートなのだから。関係各位のご努力でなんとか入手したチケット、ご努力いただいた方々に謝意を感じながら席へと向かう。

今日の私の席は、なんと舞台上の席で、ティーレマンの指揮姿がバッチリ拝める絶好のポジションだ!オーケストラの編成も、前回の第3番&第4番の時よりも絞っていて、コンパクトだから、舞台上の席でもバランスが極端に崩れないところがここのホールの特徴(というか不思議なところ)なのだ。

第1番は、2008年の収録の際にはもっと古楽的アプローチの強い演奏だったのだが、今回はベートーヴェンの前衛性を重視した感じのアプローチをしていたように思える。すなわち第1番と第2番は、師ともいうべきハイドンの影響下にあり、「英雄」でその独自性を開花させたという考えが前回の演奏解釈の柱とすれば、今回は第1番から既にベートーヴェン自身の音楽は確立されていたのだという解釈が今回の柱にあるのではなかろうか。それは後半の第2番の演奏でより顕著になった感があり、私は第2交響曲があれほど大シンフォニーに聞こえたことはなかった。

総じて大満足な公演ではあるものの、2曲が終わった時にはまだ9時前、すわ、アンコールかと思った瞬間、楽員たちの譜面は閉じられてしまい、早々に引き揚げるという時間的には「超軽量級」なプログラムとなった。しかしながら、コーフンしたお客たちは収まりがつかず、単独でティーレマンを3度も呼び出すというウィーン・フィル定期では滅多にお目にかかれない「珍事」が見られた。日本との温度差を痛烈に感じた瞬間でもあった。
| コンサートレビュー | 06:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
ばらの騎士
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27日、17時半よりウィーン国立歌劇場で、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」を観る。指揮はアダム・フィッシャー、元帥夫人をルネ・フレミング、ソフィーをイレアーナ・トンカ、オクタヴィアンをソフィー・コッシュ、オックス男爵をペーター・ローゼという布陣。

この日の公演は、ウィーン国立歌劇場のインターネットでのライヴ配信の初回公演並びに、オーストリア放送協会のラジオ生中継があったため、実際にこの演奏に接した方もいらっしゃると思うが、正直言ってガッカリの公演だったと言わざるを得ない。

まずはアダム・フィッシャーの指揮だ。彼の棒からは、シュトラウスの芳醇で艶やかな音楽は最後まで聴かれることはなかった。つまり、ココ!というところで音楽が萎えたり、輝かなかったりで、ある意味「ゆるふん」な演奏に終始していたのだ。これがベートーヴェンの「フィデリオ」とかモーツァルトのオペラとかだったらまだ救いがあるかも(それでも困りものだが・・・)知れないが、リヒャルト・シュトラウスではいただけないと感じるのは私だけだろうか。

そしてこの公演を「決定的に」ダメにしたのが、ルネ・フレミングだ!正直に告白しよう、筆者は彼女の歌が生理的に受け付けないのだ。まぁ、昔のようにアメリカ訛りの「下品な」ドイツ語をここまで矯正した努力は評価しないわけではないが、しかしながら今もって「下品な」所作の数々は、耐え難いものがある。加えてぶら下がり気味の歌唱も耐え難い。要するに彼女の歌う公演には行くな!という訳だが、それがそういう訳にもいかないところにウェルテルのごとき悩みがあるのだ。

まぁ、来年のザルツブルク・イースター音楽祭で、ティーレマンの指揮でリヒャルト・シュトラウスの「アラベラ」があるというので、万難を拝して馳せ参じようと心に決めた矢先に、タイトルロールがフレミングと聞き、一瞬にして行く気力が萎えたのだから、筆者の「フレミング嫌い」も筋金入りだと言うことか?
| コンサートレビュー | 02:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
ティーレマンとウィーン・フィル
26日、15時半より、ウィーン楽友協会大ホールにて、クリスティアン・ティーレマン指揮、ウィーン・フィルの演奏会が行われた。曲目はオール・ベートーヴェンで、交響曲第4番と第3番「英雄」の2曲。

今回のこのコンサートは、この後来月行われる日本公演での「ベートーヴェン・ツィクルス」の準備としても行われたもので、いわゆる「前哨戦」に注目が集まった。

筆者は、ティーレマンとウィーン・フィルの「ベートーヴェン・ツィクルス」(この公演の模様は、CDおよび映像収録された)のなかで、2009年11月の第7番と第8番、2010年4月の第5番と第6番、そして第9番をここ楽友協会大ホールで聴いている。今回、今日のコンサートと来週月曜日(28日)のコンサート(この日は第1番と第2番)で、筆者のウィーン楽友協会における、ティーレマンとウィーン・フィルによるベートーヴェン・ツィクルスが「完結」することとなるのだ。

基本路線としては、「ベートーヴェン・ツィクルス」を踏襲しているものの、細かい部分で「マイナーチェンジ」が施されており、一定の効果を挙げている。特に第4番は、少し軽い印象なのだが、決して昨今流行りのかる〜い演奏ではなく、骨太な感じ。所々にクライバーを連想させるのは私だけだろうか。

変わって「英雄」は、がっちりとした構築で、勇壮豪快な演奏。第2楽章はキッチリと繰り返すもんだから、60分コースの長丁場となったのだが、その長さを感じさせないほどの集中力があったのも事実。いつものティーレマン節炸裂で、素晴らしいの一言に尽きる。
| コンサートレビュー | 01:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
ブフビンダ−とウィーン・フィル
25日、19時半より、アン・デア・ウィーン劇場で、ルドルフ・ブフビンダ−の弾き振りでウィーン・フィルの演奏会が行われた。曲目はオール・ベートーヴェンのピアノ協奏曲で、前半が第2番と第1番、後半が第5番「皇帝」の3曲という
重量プログラムだ。

今回のこのコンサートは、この後来月行われる日本公演での「ベートーヴェン・ツィクルス」の準備としても行われたもので、いわゆる「前哨戦」に注目が集まった。

結果はと言うと、良い出来だったと言えるであろう。オケを小編成に絞りこみ(これが小屋の小さなアン・デア・ウィーン劇場だったからなのか、このコンツェルト・ツィクルス全体をこうしたいのかは定かではないが・・・)、さながら室内楽風な音楽を思考しながらも、ブフビンダ−らしい活逹な音楽が全体を支配していた。
| コンサートレビュー | 19:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「異国の女」
17日19時、チューリッヒ歌劇場でベッリーニのオペラ「異国の女」を観る。演出はクリストフ・ロイ、指揮はファビオ・ルイージ。

このオペラ、上演回数の比較的少ないベッリーニの作品の中でもより上演回数の少ない作品の部類に入るもので、その理由のひとつが、話が複雑すぎて、しかもロジカルでないので台本が弱いところにあると言われている。この「弱い」台本をいかに見せるかが現代演出家の腕の見せどころなのだが、いくらクリストフ・ロイといっても、今回ばかりは成功とは言いがたいのではないか。

今回の舞台設定をロイは劇場内のいわゆる劇中劇に置き換えた。その事はちっともおかしくなく、むしろ場面設定がコロコロ変わるこのオペラを書きわりや彩飾を施した斜幕で表現出来、しかも舞台下手に綱元が見えている(実際の綱元ではない)仕掛けとなっていて、場面転換の時はその綱元を引くと紗幕が上下するというもの。これ自体はなにもおかしくないのだけれど、劇中劇に仕立てたことでより話を複雑にしている感を否めない。まぁ、ロイのプロダクションは1回観たぐらいでは彼の意図するところは見えてこないかも知れないから、ここではこれ以上論評はするまい。

音楽面ではタイトルロールのアライデ役を演じたエディタ・グルベローヴァの圧勝だ!「エディタ最後の役」といわれている同役を完璧に自分のものにするのはもちろんのこと、圧倒的な存在感と歌唱は他の出演者を寄せ付けない、まさに圧巻の舞台だ!特にフィナーレの大カヴァレッタが凄まじかった。まさにエディタの面目躍如といった舞台となった。昨年の春先には珍しく少し弱気な面を見せていたエディタだが、なんのなんの、復調著しい今回の歌唱を聴けば、2015年のXデーの撤回は無論、2018年のデビュー50周年を舞台上で祝える(以前、どこかでのインタビューで「もしも神様が夢を叶えてくれると仰るなら、自身のデビュー50周年を舞台上で祝えたら!」と言っていた)のも現実味を帯びてきたと言わずにはいられないだろう。その他の歌手の力量や、オケの至らなさをカバーして余りある出来にチューリッヒの観客も惜しみなく盛大な拍手で応えていた。
| コンサートレビュー | 15:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
大阪交響楽団第164回定期演奏会を聴く

大阪交響楽団第164回定期演奏会を聴く

 




大阪交響楽団の今シ−ズン最後の定期演奏会を聴く(3月16日 ザ・シンフォニ−ホ−ル)。このところ当団は音楽監督・首席指揮者の児玉宏や、常任指揮者の寺岡清高により、誰もが知っている『名曲』の周りにある数多くの『価値ある無名の作品』を発掘し、紹介するという『ディスカヴァリ−・クラシック』という試みをしているのだが、当夜もまさにそのようなプログラムを演奏するはず(当初、当夜のプログラムは、グラズノフの『抒情的な詩 作品12』、ヘンゼルトの『ピアノ協奏曲ヘ短調 作品16』、そしてプフィッツナーの『交響曲第2番ハ長調 作品46』)だった。しかしながら、当夜の指揮を予定していた児玉宏の体調不良により、指揮者が直前に変更となり、曲目も一部変更となった。幸いにも同団常任指揮者である寺岡がこの急場を救ったのは、コンセプトの維持ということからは良かったといえる。

 

前半はベンゼルトのピアノ協奏曲ヘ短調。アドルフ・ヘンゼルト(1814-1889)は、ドイツ中部の街シュバーバッハに生まれ、シューマン、ショパン、リスト等と同じ時代を生きた“ドイツ・ロマン派”のピアノ奏者であり作曲家であった。彼はリストに並ぶピアノのヴィルトゥオーゾに数えられ、「ドイツのショパン」とまで呼ばれたようで、彼の遺した作品は、当然ながらその多くがピアノ作品であり、その中でも《ピアノ協奏曲》はこの作曲家の最高傑作に位置づけられている。初演では、クララ・シューマンの独奏によっておこなわれており、その後も(ヘンゼルトが存命の間は)大いにもてはやされた作曲家であった。このピアノ協奏曲は、1840年前後の作なので、シューマンのピアノ協奏曲とほぼ同じ頃の、まさにロマン派最盛期の時代らしい趣を持ったもの。ただ独奏ピアノは、文字通りヴィルトゥオーゾ・タイプの作品で、例えばリストはこの曲を盛んに取り上げ、ハンス・フォン・ビューローも好んで演奏したらしい。ピアノ独奏は長尾洋史で、この技術的には大変高度な作品を立派に弾いて見せたことには感心するのだが、ただ欲を言えばこの作品の根底に脈々と流れているロマティックさというものがあまり感じられなかったのは彼のせいなのか、はたまた作曲家の限界だったのか。さらにはその『悪影響』はオ−ケストラにまで伝染し、いつもの大阪交響楽団らしからぬ表情のない音楽を奏でていたのは作曲家のせいだけではないだろう。

 




結局のところ、今回とりあげたヘンゼルトのピアノ協奏曲が、もっと演奏されて然るべき作品であるという気持ちを抱かせなかったことは残念である。しかしながら、この曲よりももっとほかの作品をやるべきではないかとも感じられ(例えばシュトラウスの『ブルレスケ』とかブゾ−ニの協奏曲だって充分に『埋もれている』はずだ!)、この選曲ミスは責められて然るべきだと思う。

 

後半はフランツ・シュミットの交響曲第4番。以前寺岡はこの曲を取り上げた(2010年2月10日の同団第142回定期演奏会)のだが、フランツ・シュミットの作品はわが国ではなぜか取り上げられない(というよりオ−ストリア以外では全く!、と言ったほうが良いかもしれない)。この作品の中に横たわっているのは、調性感の曖昧さであり、それは無調の一歩手前まで達したものであり、また楽曲全体に立ち込める厭世観(この曲を作曲した前年に愛娘を亡くしており、シュミットはこの曲を愛娘の『鎮魂歌』と考えていたようだ)などは、シュミット自身はマーラー嫌いを公言していたようであるが、まさしくマ−ラ−を髣髴とさせるものである。とろけるようなロマンティックなメロディの美しさを、オ−ケストラは前回よりも一層確信をもって演奏している。その点で、しっかりとした音楽をつくり、この曲の個性や持ち味を具現化させるところに今の大阪交響楽団の素晴らしさ、実力を垣間見せているように思う。寺岡も単なる奇抜なアイデアや目先の面白さとは無縁の指揮者であるから、真正面から音楽に真摯に向き合い、この作品を手中に収め、より作品の本質を見せてくれたと思う。聴く側も演奏する側も一度だけでなく二度三度と回を重ねるごとに理解が増すというものだ。この後の東京公演とそれに続くレコ−ディングの出来が楽しみになってきた。

 

 

 

 
| コンサートレビュー | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
『エディタ・グルベロ−ヴァ オペラアリアの夕べ』を聴く

『エディタ・グルベロ−ヴァ オペラアリアの夕べ』を聴く

 




今回のバイエルン州立歌劇場日本公演の特別コンサ−トとして企画された、『エディタ・グルベロ−ヴァ オペラアリアの夕べ』と題されたコンサ−トを聴く(所見:10月9日 サントリ−ホ−ル)。指揮はウクライナ人の若手、アンドリ−・ユルケヴィチ、管弦楽は東京フィル。

 

筆者が初めて彼女の歌に接したのが1987年、彼女の2度目の来日公演であり、初めてのリサイタルであった。以来、日本はもとより海外でもほとんど毎年のように彼女の歌に接してきたが、近年、寄る年並みにはさすがのエディタも抗えないのだろう、以前のような『完璧な』歌唱は影を潜めているものの、逆に表現力にはより一層磨きがかかってきているのが彼女の歌の特徴だ。当夜のコンサ−トでも、前半に3曲、後半に2曲(この5曲がとんでもない曲ばかり!)、さらにアンコ−ルでも2曲を歌うという大サ−ビスぶりを見せた。

 




前半はまず、90年代初めにオペラ全曲としては役を降ろしてしまったモ−ツァルトの『後宮からの逃走』より 
コンスタンツェのアリア 「悲しみが私の宿命に」、エディタにしてみればこの難曲も慣らし運転のようにすら感じる。オ−ケストラの曲に続いて、2曲目がこれまた難曲中の難曲、ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』(これまた最近では全曲を歌うことがなくなった)より ルチアの狂乱の場。今日の白眉と言っていい。それほどの出来栄え。もちろん往年のような完璧なものではなかったが、それを技術で補って聴かせるところが今の彼女だが、それがまた凄いレヴェル!それだからこそ、歌い終わった後は興奮のるつぼと化すわけだ。さらにオ−ケストラの小品を挟んで、ドニゼッティの『ルクレツィア・ボルジア』より 「私の願いをきいて〜彼は私の息子でした」(これもまた『狂乱の場』!)。これは今盛んに歌っている役柄だけに安心して聴ける。それにしても凄い。一音一音をきめ細やかに紡いでいくかのような彼女独特の歌唱は、他の追随を許さないのだ。

 

後半は2曲。まずはこれもまたと言うかのように、ベッリーニの『清教徒』より エルヴィ−ラの狂乱の場 「あなたの優しい声が」。『清教徒』もまた近年あまり歌われなくなった役柄のひとつで、ここまでくると私にとってはさながら“同窓会”のような感じ。エディタはここでも最弱音と高音を自在に操る自らの素晴らしい声と、数多の歌劇場で修羅場をくぐってきた大歌手だけが持つ説得力のある演技と存在感で観客を圧倒した。そしてプログラム最後の曲、ヴェルディの『椿姫』より ヴィオレッタのシェーナとアリア  「ああ、そはかの人か〜花から花へ」。しばらく歌っていなかったが、去年に久々にまた押し入れの中から引っ張り出してきたかのようなロ−ルだが、ヴィオッタの揺れ動く心の内面を表現することに力点を置いたもので、決してこのアリアが超絶技巧や最高音をひけらかすものではないことを暗に示しているかのようであり、オペラのアリアとは、こうして歌われるものなのだと言いたげな歌唱であった。アルフレードのパートをチェロが受け持つことで、一層そういった趣きとなっている。

 




アンコ−ルは本編のシリアスから一転、コミカルな2曲が選ばれた。最初に
バーンスタインの『キャンディード』より 「きらびやかに着飾って」。この曲を彼女が最初に歌ったのが1993年、以来彼女のレパ−トリ−のひとつとして歌ってきている。バ−ンスタインの『使徒』として、彼女が我々に伝えているかのようだ。そして最後にシュトラウスの『こうもり』より アデーレのアリア 「田舎娘の姿で」。エディタが聴衆に向かってほほ笑みながら「コ・ウ・モ・リ」と言うと会場は割れんばかりの拍手。身振り、手ぶりの演技を交えながら我々を刑務所長フランクと同じく完全にノックアウトして、聴衆のヴォルテ−ジも最高潮に達した。次々に差し出される手にいつまでも握手で応じているエディタを見守りながら、「これならまだまだ歌ってくれるに違いない」と思うとともに、2015年までスケジュ−ルが詰まっている彼女がいっそう良いコンディションで歌い続けてくれることを望みながら、会場を後にした。

 

 

 

 
| コンサートレビュー | 16:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
関西二期会公演『フィガロの結婚』を観る

関西二期会公演『フィガロの結婚』を観る

                              




このところ心境著しい関西歌劇界の雄、関西二期会が昨年から4年間に渡って取り組んでいる、モ−ツァルト・シリ−ズの第2弾として今回新制作した、モ−ツァルトの『フィガロの結婚』を観る(所見:10月8日 尼崎・アルカイックホ−ル)。演出は中村敬一、指揮は京都市交響楽団常任指揮者の広上淳一、管弦楽は京都市交響楽団。

 

関西二期会は昨年『ドン・ジョヴァンニ』(指揮:園田隆一郎、演出:粟 淳)を上演しており、このあと来年は『コシ・ファン・トゥッテ』、さらに2013年には『魔笛』と続くそうである。このモ−ツァルト・シリ−ズ、ぜひとも期待したいところだが、少なくとも今回の『フィガロ』に関して言えば、残念と言わざるを得ない結果となった。まずもって言わせていただきたいのが演出だ。よく言えば『前近代的』、悪く言えば『何もやっていない』あるいは今となっては『手垢のつきまくった』ノ−アイディアな演出だとしか思えなかった。要するにこの演出、20年前、いや30年前の演出スタイルだと言われても仕方のないものだとも言える。あたかもこの夏のザルツブルクでの『マクベス』(ペ−タ−・シュタイン演出)さながらの“オ−ルド・ファッション”なものとしか思えなかった。この演出プランを打ち出してきた背景が、演出家個人の発想によるものか、あるいは主催者(関西二期会)の主導によるものかは私にはわからない。

 

昨今流行りの『読み替え演出』のなかには、独りよがりな舞台も存在するが、だからといって『前近代的』な、古ぼけた演出を今さらわざわざ新しく出す必要も全くないと思う。私は『発展』のない演出によるオペラ上演は、それそのものの衰退を招きかねないと危惧しているうちのひとりだが、それは私の『取り越し苦労』なのだろうか?

 

ただしこのプロダクションにおいても見るべきところがあったことは確かで、興味深いシ−ンもあったことを付け加えておかなければならない。例えば全編にわたって装置が、壁が取り払われてスケルトン状態(本当は何もないのだが)なので、普段は表舞台だけの演技が、その前後にも(なかでも第3幕の伯爵のアリアの最中に、裁判官のドン・クルツィオとフィガロ、マルツェリ−ナ、ドン・バルトロが係争中案件のことで言い合いをしているのがこちらから見えるのは良いアイディアだ!)演技をしながらの入退場というのは面白い手法のひとつだと思った。

 




それよりも音楽面での低調な進行具合には正直言って失望した。その責任の大半は指揮者である。全体に遅めのテンポ設定(まるでベ−ムのような遅さ!)で、それそのものは非難すべきものではない(と言っても、演出面だけでなく、音楽面でも『前近代的』なプロダクションとなった最大の要因でもある)が、時折不自然なテンポの揺れ(しかもそのほとんどがさらに遅くなる!)でアンサンブルが混乱する箇所が山積されたのは困りものだ。本来指揮者はアンサンブルをまとめていくのが仕事のはずなのに、自らその責任を放棄したのは、どんなに言い訳しても納得してはもらえないだろう。それだけに広上の背負う罪は大きい。

 

歌手は総じて健闘している。この日良かったのが、前回の『つばめ』でタイトルロ−ルを歌ったケルビ−ノ役の上村智恵。彼女の声域からすれば、本来ならば伯爵夫人役だとも思うのだが、そんなことはお構いなし、彼女が歌い始めると舞台の雰囲気がガラッと変わるほどのオ−ラを感じさせさえする。彼女の舞台をもっと観たいと思わせるだけの人だ。伯爵夫人を歌った木澤佐江子もまた素晴らしい。彼女の歌は他者を押しのけるような際立った個性があるわけではないが、端正な歌唱がまた舞台栄えのする歌手である。ちょうどドロテア・レシュマンのよう(ちょっと持ち上げすぎ?)な歌手になるような気がして、今後を注目していきたいソプラノだ。伯爵を歌った福嶋 勲もまた注目に値する。ちょっと内向きな発声であるが、往年のト−マス・アレンのような感じを受けた。どうやら長らくリ−ト(歌曲)の分野に身を置いていたとか、そのことがある意味良い面に出たような歌唱であった。今後が期待できる歌手だ。また脇を固める役柄にキャラクタ−が際立っていて、特にドン・バジ−リオ役の八百川敏幸と、アントニオ役の山中雅博が好演。今回は日程の関係で2日目の公演を観ることが出来なかったが、前日(7日)に高校生のための公演では、ケルビ−ノ役の鬼一 薫が際立っていたことをあわせて紹介しておく。

 

 

 

 
| コンサートレビュー | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
バイエルン州立歌劇場日本公演 『ロベルト・デヴェリュ−』を観る

バイエルン州立歌劇場日本公演 『ロベルト・デヴェリュ−』を観る

                        




バイエルン州立歌劇場の日本公演から、ドニゼッティの『ロベルト・デヴェリュー』を観る(10月1日 東京文化会館)。演出はクリストフ・ロイ、指揮はフリードリヒ・ハイダー。

 

作品の時代背景はエリザベス1世統治下のイギリス。「処女王」とも呼ばれ、ただ国を統治する事のみに人生を全身全霊に捧げた彼女が、唯一「女性」的内面を見せた臣下のロベルト・デヴェリューとの恋愛模様を描いているが、今回のプロダクションはそれを現代に、しかも設定を大手銀行に、エリザベス1世を「やり手」の女頭取に置き換えているところがクリストフ・ロイの大胆な発想だ!





ロイはエリザベスを、あたかも「鉄の女」と呼ばれたかつての女宰相、マーガレット・サッチャーともダブらせ(衣装のスーツ姿がいかにも彼女好み!)、より一層エリザベスの人生観を引き出すことに成功している。今流行りの「読み替え」演出でも、ここまで凝った深い洞察だと、こちらも感心しきりだ!

 

歌手は概ね好評。特にエリザベッタ(エリザベス)役のエディタ・グルベローヴァの迫真の演技と歌唱には脱帽だ!筆者は彼女のエリザベッタを1994年のストラスブールでの同役初挑戦からほとんどと言っていいほど折に触れて聴いてきたが、さすがに往時の完璧さは影を潜めたものの、逆に演技表現に凄みが増して、聴く者を「震撼」させるほどだ!特にエンディングの「狂乱の場」における彼女の『衝撃的シ−ン』(!)は歌・演技共にまさに圧巻の一言に尽きる。

 




実際、バイエルン州立歌劇場の合唱のメンバーに聞くと「グルベローヴァの今回の日本公演に対する意気込みが全く違う!彼女の歌をそばで見ていて、自分の歌うところを忘れるくらいに思わず引き込まれそうになる」と言っていた。まさに「彼女のための舞台」であり、彼女の日本での金字塔たり得る、堂々たるパフォーマンスを見せた。おそらく今回が日本でのオペラの舞台の最後になるであろう(来年のウィ−ン国立歌劇場日本公演のドニゼッティ『アンナ・ボレ−ナ』には同行しないと彼女は明言している)ステ−ジに、文字通り『有終の美』を飾ったものであった。

 




ロベルト役のロシア人、アレクセイ・ドルゴフは代役にも関わらず見事な歌唱。まだ若いので将来が期待できる。サラ役のソニア・ガナッシも揺れ動く心理を的確に表現していた。指揮のフリードリヒ・ハイダーのサポートも特筆される。決して一筋縄ではいかないこの作品を見事なタクトさばきで仕上げ、要所ではいい意味でドイツの歌劇場オーケストラらしからぬ、美しいベルカントの響きを紡ぎだしていた。

 

 

 

 
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ティーレマン/ ウィーンフィル
7日、21時から祝祭大劇場にて、クリスティアン・ティーレマン指揮のウィーンフィルの演奏会を聴く。曲目はすべてリヒャルト・シュトラウスの作品で、前半がルネ・フレミングのソプラノ独唱で、オーケストラ伴奏付き歌曲を4曲と、歌劇「アラベラ」第1幕の最終場面(アラベラのモノローグ)。後半は「アルプス交響曲」といったプログラム。

前半からシュトラウスの芳醇な世界に包み込まれて幸せだったが、後半は度肝を抜かれた大爆演。約50分にわたる演奏で、アルプスの山の刻々と変化していく様子を私たち聴衆に提示してくれた。まさに祝祭大劇場がシュトラウスの響きで充満しているといっていいような感じだ。

演奏後、拍手のなり止まない会場に、ティーレマンもウィーンフィルのメンバーも満足した様子。いつもならオケが舞台から引き揚げ始めると、潮が引くかのごとく拍手の止む祝祭大劇場の聴衆も今夜は違った。そして舞台に誰もいなくなった後でも、一向に拍手のなり止まない。するとティーレマンが舞台に顔を出した。客席からはブラボーの嵐に。ティーレマンは答礼をした後、舞台を指差し、「オーケストラが素晴らしい!」と言いたげな仕種をしている。拍手と歓声のなか、大満足のティーレマンと聴衆たち。興奮はまだまだ収まらないが、心地よい気分で今回の旅の最終公演を終了したのだった。
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