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クラシック専門 音楽マネジメント
2010.10.12 Tuesday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第30回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス第30回 第15章 ロンドンのオペラハウス 大英帝国の宝、ロイヤル・オペラハウス(コヴェント・ガーデン王立歌劇場)
1960年代に円形客席部分の拡張など小規模の改装が実施されていたが、根本的な大改装が必要であるとの意見が次第に強まっていた。1975年に当時の労働党政府は長期間におよぶ改装工事に使用するため隣接する土地を歌劇場へ与えた。しばらくの間は資金のめどが立たなかった(『イギリス病』ともいわれる長期の不況が原因)が、1995年には資金のめどが付き、翌1996年から2000年までの4年間を用いて大規模な改装工事に取りかかった。観客席以外の大部分および歌劇場に隣接する建物を取り壊し、全ての部分を大きく拡大され、新しい歌劇場は以前の倍にもおよぶ容積を有している。新歌劇場は以前と同様の馬蹄型観客席を有しているが、技術設備、リハーサル用設備、オフィス、教育用施設など新しい機能が盛り込まれた。地下にはリンブリ−・シアタ−と呼ばれる新しい劇場が設けられた。歌劇場に隣接しコヴェント・ガーデン・マーケットとして利用されていた旧フローラル・ホールも歌劇場の一部として取り込まれた。現時点ではヨーロッパにおける最も近代的な設備を誇る歌劇場となっている。こうして現在の最新設備の整った素晴らしい劇場へと生まれ変わった。広大な土地に、巨大な空間を持った豪華なホワイエ、レストランやバーの規模はおそらく世界一かと思われる。特にアンフィシアターと呼ばれる劇場内のレストランは、味もサービスも眺めも大変良く、お勧めである。
劇場の造りは、4層の馬蹄形。1階席(平土間)とほとんど段差のない1層目。そして2層目、3層目が広がるが、ボックス席は数えるほどしかなく、各層の列ごとに段差のついたどの席からの良く見える構造である。そして最上階の4層目は20列もの急な段差を持つ造りになっており、上の方の席だと高所恐怖症の人には少々怖いかも知れない。ク−ベリックやショルティ、C.ディビスなどの著名な歴代音楽監督を有し、現在の音楽監督は、ハイティンクのあとを受けた新進気鋭のイタリア人指揮者、アントニオ・パッパーノ。オーケストラ、合唱、バレエ団、スタッフと劇場のレヴェルも高く、間違いなく世界の五指には入るであろう。
2010.10.04 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第29回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス第29回 第14章 スペインのオペラハウス バルセロナ・リセウ大劇場
バルセロナのオペラハウスといえば、リセウ大劇場。バルセロナの目抜き通りであるランブラス通りのちょうど中間点に位置し、同都市を代表する観光スポットのひとつである。1847年に開場した歴史を持ち、現在でもヨーロッパ有数の劇場として、イベリア半島No.1の座は揺るがない。2度の大火災に見舞われたが、1995年に再開場し、意欲的な公演を続けている。近年は同劇場で様々なDVDやCDが収録されており、一部のファンの間ではミラノ・スカラ座や、ウィ−ン国立歌劇場などと並び称される程の評価を得るなど、カルト的人気のある歌劇場である。通称 "El Liceu"(エル・リセウ)。 「リセウ大劇場」という和訳は劇場の所在するカタルーニャ自治州の公用語であるカタルーニャ語の名称(Gran Teatro del Liceu)を元にしている。スペイン語では「リセオ大劇場(Gran Teatro del Liceo)」となり、寧ろ近年までこちらの表記が一般的であった。 また「リセウ歌劇場」や単に「リセウ劇場」等と様々な表記が観光ガイドブックやネット上で使われており一様でない。本記事では原語を尊重し「リセウ大劇場」で統一する。
客席は2292席。これはヨ−ロッパ最大を誇る。間口33メ−トル、高さ27メ−トルのプロセニアムを持ち、平土間と5つのバルコニ−を有する内装は、古き佳きスペイン無敵艦隊の栄華を誇るかのようだ。ロビ−も豪華極まりない。特に鏡の間は圧巻で、豪華絢爛な雰囲気、ここで幕間にシャンパンでも飲みながら談笑するとさぞ心地よいだろう。 ここの天井桟敷の人々もスカラ座に勝るとも劣らないツワモノ揃いで、下手な歌や演出ならば容赦ないブ−イングが天井付近からシャワ−のように浴びせかけられる。 2010.09.27 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第28回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス第28回 第13章 ドレスデンのオペラハウス(ゼンパ−オパ−) ドレスデンが誇る名門ゼンパーオーパー
2010.09.20 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第27回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス第27回 第12章 新国立劇場 ついに新国立劇場を紹介!
イタリアやドイツなどに行けば、どんなに小さい町でも“おらが町のオペラハウス”が町の真ん中にあり、町の人たちに愛されている。また、世界中の先進国でオペラハウスを持っていない国は当然日本だけで、私も歯がゆい思いをし続けてきた。そして、諸先輩たちの苦労がついに実り、4面舞台の素晴らしい設備を兼ね備えたオペラハウスが1997年に完成したのである。
そもそも新国はどこにあるのか?行ったことのある人や東京近郊に住んでいる人は当然知っているであろうが、初台というところにある。初台は、京王新線の新宿から1つ目の駅で地下にある。そして、北口が新国に、東口がオペラシティへ地下から直結している。しかも、公演がある時には渋谷駅との往復無料シャトルバスも運行しているので、ロケーションはかなり良い。
新国は、その初台交差点に面している東京オペラシティという文化複合施設の敷地内の一画を占める。すぐ横(上?)を首都高速4号新宿線が走っていて、都心と中央高速方面の行き帰りには必ず目に入る。東京オペラシティのメインのビルは、1996年に完成した地上54階の超高層ビルで、この1階から4階部分にかけて立派なコンサートホールを持っている。この東京オペラシティのコンサートホールは、作曲家の武満徹の名前を取って、正式名称をタケミツメモリアルと言う。こちらは主にオーケストラのコンサートに使用され、1,632席の客席、立派なパイプオルガンを持ち、音響がとても良いことでも知られている。1997年9月に小澤征爾の指揮、サイトウキネンの「マタイ受難曲」でオープンしたので、こちらも今年で10周年を迎えた。また、286席のリサイタル・ホールという小ホールも持っていて、主に室内楽のコンサートが行われている。地下に立派なリハーサルも2つ持っていて、私もそこで何度もリハーサルをしたことがある。
2010.09.13 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第26回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第26回 第11章 ロ−マ歌劇場
「永遠の都」とも呼ばれ、キリスト教の総本山ヴァチカンを抱えるローマ歌劇場を紹介する。 ローマという街に関して特に説明は必要ないであろう。2500年の歴史を誇り、7つの丘に囲まれ、テレヴェ川のほとりに広がる永遠の都である。古代ローマ時代、中世、ルネッサンス、バロックなど各時代の建築物が無数の噴水や広場と相まって、見事な調和を持ち、美しくも壮大な街を形成している。現在はイタリアの首都として政治経済の中心地であるとともにラツィオ州の州都でもあり、イタリアで1番大きな街である。 ローマを舞台にしたオペラはモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」やドニゼッティの「ドン・パスクアーレ」など無数にあるが、やはり1番有名なのはプッチーニの「トスカ」であろう。舞台は今から200年以上も前の1800年であるが、全幕を通じてすべてが実在の場所となっている。1幕はサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会、第2幕はファルネーゼ宮殿、そして第3幕はトスカがテヴァレ川に身を投げるサンタンジェロ城。そのほかオ−ケストラ作品では、ローマ3部作といわれるレスピーギの交響詩「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」もローマの実在の場所や祭りを描いた作品。
ローマ歌劇場の歴史は、他の名門劇場に比べると新しい。1880年にロッシーニのオペラ・セリア「セミラーミデ」で開場。当時の名前はオーナーの名前を取ってコスタンツィ劇場と呼ばれた。1888年楽譜出版社のソンゾーニョ社が劇場を買い取り、1幕オペラのコンクールを開催した。その第2回(1890年)に優勝した作品が、マスカーニの傑作「カヴァレリア・ルスティカーナ」である。このオペラはヴェリズモ(現実主義、写実主義)の代表的な作品と言われ、その後もオペラ座ではヴェリズモ・オペラが数多く取り上げられた。そして、もっとも初演作品として最も有名なオペラもやはり前述の「トスカ」で、1900年1月14日に初演され、大成功を収めた。1928年からは王立オペラ座と名称が変わり、その後、単にローマ歌劇場と呼ばれるようになった。
オペラ界最大のスキャンダルとも言われるマリア・カラスの事件が起こったのもここの劇場である。1958年1月2日、全盛期を迎えていた彼女は、もっとも得意とする「ノルマ」を大統領隣席のもと歌うことになった。しかし、のどが炎症を起こしていた彼女は1幕の途中で声が出なくなってしまい、2幕以降をキャンセルすることになる。しかし、前夜、前々夜に夜中まで新年の祝賀会などで踊ったり歌ったりしていたことを知っていた観客は激怒し、「ミラノへ帰れ!」と叫び、カラスはようやく逃げ出したのである。「ミラノへ帰れ!」とは当時、彼女はスカラ座のプリマドンナとして世界中に知られていたからだが、もちろん北に対する対抗心も大きかったのであろう。のちに彼女は劇場を訴え、損害賠償金を勝ち取った。しかし、このことが原因で彼女はスカラ座を始めイタリア中の歌劇場から締め出せれ、払った代償はあまりに大きかった。そして、この事件を境に彼女の歌手生命は坂道を転げ落ちていったのである。
劇場は馬蹄形で、プラテア(平土間)の上に4層のロジェ(ボックス席)、さらにその上に広い1層のガレリア(天井桟敷)という造り。ワインレッドに金箔が良く映えている。天井の美しいフレスコ画はブルニョーリの作品で、音響も良いが、外観は何だかそっけないようなシンプルな造りである。 2010.09.06 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第25回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第25回 第10章 チュ−リッヒ歌劇場
カサロヴァ、バルトリ、ハンプソン、ヌッチ、バルツァ、フレミング、フェリットリ、マイヤ−、ライモンディ、サルミネン、ザイフェルト、シコフなど、世界第一級の歌手も出演する、ヨーロッパ有数の歌劇場である。 2010.08.30 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第24回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第24回 第9章 バーデンバーデン祝祭劇場(フェストシュピールハウス)
2010.08.23 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第23回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第23回 第8章 バイロイト祝祭劇場
美しい公園の先の丘の上にあり、別名「緑の丘」とも呼ばれてもいる。毎年夏に開かれる音楽祭の初日には、ドイツ内外から有名人が招かれ、まるでアカデミー賞授賞式かミラノ・スカラ座のオ−プニングの様に賑わう。しかしながら、建物自体は音楽第一主義で、装飾はとても質素。2000を越える客席の椅子は詰め物のない硬い木製で、ベンチの様に硬く、黒に塗られている。これによって各客席を含めた全体が共鳴板として働き、しばしばヴァイオリンの胴体に例えられる特異な音響空間を作り出している。しかしながら、長いワーグナーのオペラには適さない。そのため、華やかに着飾った人々の殆んどが、服装には不似合いなクッションを持ち込んで聴くこととなる。
ワ−グナ−はさらに、観客を舞台に集中させるためにオ−ケストラ・ピットを舞台下に設けた構造(「神秘の奈落」と呼ばれる)は他に類を見ない。またオーケストラピットに蓋がされていて、オーケストラの大音響にも歌手の声が消されないので、ワーグナーの上演に関しては、世界で最高の音響と言われている。反面、オーケストラや指揮者からは客席が全く見えない。現在は映像機器により客席や舞台袖がモニター可能であるが、奏者からはしばしば演奏しにくいと言う人もいる。 客席からは完全にピットが見えないので、指揮者も含めてオーケストラは、ここでは燕尾服ではなく、普通の服で演奏することができる(夏のバイロイトは非常に暑く、空調設備の整っていない劇場内、特にピットの中は蒸し風呂状態であり、楽団員はみなTシャツやポロシャツで演奏する)。 歌劇場自体は質素でも、その周りには休憩時間には大賑わいのレストランや、リハーサル室、舞台装置の製作スタジオなど、複数の建物が建設されている。オーケストラピットから別棟のカフェテリアに続く通路には、リヒター以来の歴代の指揮者の写真が飾ってあり、音楽祭の伝統を物語っている。しかしながら、オーケストラは指名手配の写真の連想して、「犯罪者のギャラリー」というあだ名で呼んでいるのだ。 1951年の戦後の再開場以来、ヴィ−ラントとウォルフガングのワ−グナ−のふたりの孫によって運営されてきたが、ヴィ−ラントの急逝の後はウォルフガングによる単独の運営が長期にわたって続けられてきた。その間にはワ−グナ−家の骨肉の争い(まるで『ニ−ベルングの指輪』を地で行くような)が繰り広げられていた。しかし2009年からバイロイト音楽祭はウォルフガングが引退し、新たにカタリーナとエファのふたりのウォルフガングの娘による2頭体制になり、新しい組織になった。時代に相応した新しいバイロイト音楽祭はインターネット中継、現地でのライブ・ビューイングなど、これまでにない動きを見せ伝統におぼれない展開を開始している。
2010.08.16 Monday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第22回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第22回 第7章 ザルツブルクと音楽祭とオペラハウス(その3)
音楽祭は毎年7月下旬から8月末まで(今年は7月25日から8月30日まで)の約40日間の期間中に、演劇・オペラ・コンサートなど約150の公演で約20万人を超える観客を動員しており、現在も世界有数の大規模な音楽祭として開催されている。なお、日本では「ザルツブルク音楽祭」としているが、厳密には音楽分野と同等に演劇分野も行われており、正確には「ザルツブルク祝祭」と呼ぶのが正しい。
音楽主会場は祝祭大劇場が、音楽祭創設40年の年である1960年にホルツマイスタ−の設計により完成した(だから今年が祝祭大劇場ができて50年目に当たる)。当初旧市街で大劇場を建築するための土地探しは難航したが、結局メンヒスベルクの岩盤を55,000m³ もくり抜いて建築された。ステージの大きさは世界最大級で、幅は100メートル、高さ32メ−トル、奥行きは25メートルもある。座席数2179席。カラヤン指揮の「ばらの騎士」で柿落としをした。オペラ・コンサ−トなどに使用している。入り口はホーフスタールガッセに面しており、モ−ツァルト・ハウスやフェルゼンライトシューレと並んでいる。
2006年に全面改装されたモ−ツァルト・ハウスは1925年にホルツマイスタ−により大司教の厩舎(冬の馬屋)を改装して完成。祝祭劇場として使用していた。1960年の現祝祭大劇場会場を機に改築され、1963年改築、以後祝祭小劇場として使用される。座席数1323席、立席60を有していたが、音響がよくないとの声が多数あったため、モ−ツァルト・イヤ−の2006年に再改築し、以後現在の名称となっている。現在の座席数1495席、立席85となっている。間口14mで、これはウィ−ン国立歌劇場と同じである。これは以前(戦前といってもいいのだが)、ウィ−ン国立歌劇場のプロダクションを夏にザルツブルクに持ってきて上演していたためで、戦後もそのようなプロダクションがあった(最近では2003年のコルンゴルドの「死の都」など)。
17世紀はじめ大司教の厩舎(夏の馬屋)と馬術学校として建てられたものを1925年に改装してホ−ルとして使用しているフェルゼンライトシューレ(1493席)は、自然の岩山を背景にしている。現在舞台を取り囲んでいる三層に重なった96のアーチからなる岩盤は、馬術学校当時の観客席である。1933年にはクレメンス・ホルツァーによる「ファウスト」や1948年にはカラヤンがグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」を上演するなど、伝説のプロダクションによりフェルゼンライトシューレは一躍有名になった。しかしながら、屋外の劇場であり残響は少なく音楽にはあまり適していなかったため、祝祭大劇場の新設、旧祝祭小劇場(現モ−ツァルト・ハウス)の改装後の1970年にホルツマイスターによる改修が行われ、40mの幅の舞台、舞台下に4mの空間が確保された。また懸案であった雨を防ぐための可動式の屋根が作られた。また、映画「サウンド・オブ・ミュ−ジック」の際に、トラップ一家の合唱コンク−ルの会場としてロケが行われた。
ほかにモーツァルテウム大ホール(807席、1914年完成、普段はモーツァルテウム管弦楽団ヤ、カメラ−タ・ザルツブルクの本拠地。大ホールの脇のホワイエを通って庭に出ると、ウィ−ンから移築されたモ−ツァルトが『魔笛』を作曲した作曲小屋や、有名なミラベル庭園の景色を楽しむことが出来る)。演劇は州立劇場(732席、1893年完成)。それに創始者のひとりホフマンスタ−ルの「イェ−ダ−マン」を上演するド−ム広場(仮設の会場)などがある。「本当に芸術的良心にかなったオペラ上演の唯一のチャンスを提供しているのがザルツブルクである」とカラヤンが言っているとおり、現在もその精神が受け継がれている。オペラではモーツァルトの「フィガロ」が最も上演回数の多く、シュトラウスの「ばらの騎士」が2番目に多い演目である。 2010.07.20 Tuesday
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第21回
長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス 第21回 第7章 ザルツブルクと音楽祭とオペラハウス(その2) 世界一の音楽祭、ザルツブルク音楽祭
何と言っても世界一の音楽祭といえば、質でも量でも歴史でもザルツブルク音楽祭であろう。ザルツブルクといえば、モーツァルト、カラヤンらが生まれた町、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台として知られるが、オーストリアの地方都市で山間の小さな町。それが、夏の音楽祭の期間は、世界中の王室、政治家、映画俳優など特上のセレブの音楽ファンが集う社交場と化す。そして、アーティストたちもレギュラーオーケストラのウィーン・フィルや、スター歌手たち、超一流の音楽家が連日連夜夢のようなオペラ、コンサートに出演する。
1917年、演出家マックス・ラインハルトの提唱で準備委員会であるザルツブルク祝祭劇場協会が発足し、作曲家リヒャルト・シュトラウス、指揮者フランツ・シャルク、劇作家フーゴー・フォン・ホーフマンスタール、舞台装置家アルフレート・ロラー等が芸術顧問になり、1920年8月22日大聖堂前広場でホーフマンスタールの「イェーダーマン」(ラインハルト演出)が初演され、「ザルツブルク音楽祭」(日本では長年「ザルツブルク音楽祭」としているが、むしろ「ザルツブルク祝祭」とした方が正しい)が開幕した。
1921年音楽の演目が追加され、初めて演奏会が、翌1922年にはオペラ公演が行われ、「ドン・ジョヴァンニ」などモーツァルトの4つのオペラが上演された(演奏はウィーン・フィルが担当、後にオペラ公演で忙しいウィーン・フィルに代わってベルリン・フィルなど他のオーケストラも音楽祭に参加するようになる)。1925年祝祭劇場が落成(現在のモ−ツァルト・ハウス、旧祝祭小劇場)、ワルターが指揮者として加わりオペラの演目も年々増加する(ワーグナーやヴェルディなど)。そして1934年にはトスカニーニが加わり戦前の黄金期となる。しかし1938年、オーストリアはナチス・ドイツに併合され、反ナチ(トスカニーニ)やユダヤ系(ラインハルトやワルター)の芸術家は一掃されてしまうこととなる。
1960年の祝祭大劇場のこけら落としの作品、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」
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