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大阪交響楽団第164回定期演奏会を聴く

大阪交響楽団第164回定期演奏会を聴く

 




大阪交響楽団の今シ−ズン最後の定期演奏会を聴く(3月16日 ザ・シンフォニ−ホ−ル)。このところ当団は音楽監督・首席指揮者の児玉宏や、常任指揮者の寺岡清高により、誰もが知っている『名曲』の周りにある数多くの『価値ある無名の作品』を発掘し、紹介するという『ディスカヴァリ−・クラシック』という試みをしているのだが、当夜もまさにそのようなプログラムを演奏するはず(当初、当夜のプログラムは、グラズノフの『抒情的な詩 作品12』、ヘンゼルトの『ピアノ協奏曲ヘ短調 作品16』、そしてプフィッツナーの『交響曲第2番ハ長調 作品46』)だった。しかしながら、当夜の指揮を予定していた児玉宏の体調不良により、指揮者が直前に変更となり、曲目も一部変更となった。幸いにも同団常任指揮者である寺岡がこの急場を救ったのは、コンセプトの維持ということからは良かったといえる。

 

前半はベンゼルトのピアノ協奏曲ヘ短調。アドルフ・ヘンゼルト(1814-1889)は、ドイツ中部の街シュバーバッハに生まれ、シューマン、ショパン、リスト等と同じ時代を生きた“ドイツ・ロマン派”のピアノ奏者であり作曲家であった。彼はリストに並ぶピアノのヴィルトゥオーゾに数えられ、「ドイツのショパン」とまで呼ばれたようで、彼の遺した作品は、当然ながらその多くがピアノ作品であり、その中でも《ピアノ協奏曲》はこの作曲家の最高傑作に位置づけられている。初演では、クララ・シューマンの独奏によっておこなわれており、その後も(ヘンゼルトが存命の間は)大いにもてはやされた作曲家であった。このピアノ協奏曲は、1840年前後の作なので、シューマンのピアノ協奏曲とほぼ同じ頃の、まさにロマン派最盛期の時代らしい趣を持ったもの。ただ独奏ピアノは、文字通りヴィルトゥオーゾ・タイプの作品で、例えばリストはこの曲を盛んに取り上げ、ハンス・フォン・ビューローも好んで演奏したらしい。ピアノ独奏は長尾洋史で、この技術的には大変高度な作品を立派に弾いて見せたことには感心するのだが、ただ欲を言えばこの作品の根底に脈々と流れているロマティックさというものがあまり感じられなかったのは彼のせいなのか、はたまた作曲家の限界だったのか。さらにはその『悪影響』はオ−ケストラにまで伝染し、いつもの大阪交響楽団らしからぬ表情のない音楽を奏でていたのは作曲家のせいだけではないだろう。

 




結局のところ、今回とりあげたヘンゼルトのピアノ協奏曲が、もっと演奏されて然るべき作品であるという気持ちを抱かせなかったことは残念である。しかしながら、この曲よりももっとほかの作品をやるべきではないかとも感じられ(例えばシュトラウスの『ブルレスケ』とかブゾ−ニの協奏曲だって充分に『埋もれている』はずだ!)、この選曲ミスは責められて然るべきだと思う。

 

後半はフランツ・シュミットの交響曲第4番。以前寺岡はこの曲を取り上げた(2010年2月10日の同団第142回定期演奏会)のだが、フランツ・シュミットの作品はわが国ではなぜか取り上げられない(というよりオ−ストリア以外では全く!、と言ったほうが良いかもしれない)。この作品の中に横たわっているのは、調性感の曖昧さであり、それは無調の一歩手前まで達したものであり、また楽曲全体に立ち込める厭世観(この曲を作曲した前年に愛娘を亡くしており、シュミットはこの曲を愛娘の『鎮魂歌』と考えていたようだ)などは、シュミット自身はマーラー嫌いを公言していたようであるが、まさしくマ−ラ−を髣髴とさせるものである。とろけるようなロマンティックなメロディの美しさを、オ−ケストラは前回よりも一層確信をもって演奏している。その点で、しっかりとした音楽をつくり、この曲の個性や持ち味を具現化させるところに今の大阪交響楽団の素晴らしさ、実力を垣間見せているように思う。寺岡も単なる奇抜なアイデアや目先の面白さとは無縁の指揮者であるから、真正面から音楽に真摯に向き合い、この作品を手中に収め、より作品の本質を見せてくれたと思う。聴く側も演奏する側も一度だけでなく二度三度と回を重ねるごとに理解が増すというものだ。この後の東京公演とそれに続くレコ−ディングの出来が楽しみになってきた。

 

 

 

 
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