CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< November 2019 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
NEW ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
 
クラシック専門 音楽マネジメント
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark | 昨年の記事
短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第5回)

短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第5回)

 

 

第2章 祝典行事(その2)

 

その2 奉祝音楽会(続き)

 




1940年5月9日、まずヴェレッシュの曲
「交響曲(第1番)」がハンガリーから帰国してきた書記官によって届けられた。続いてシュトラウスの曲「皇紀2600年祝典曲 作品84」が4月23日に完成し、6月11日(シュトラウス自身の誕生日)にベルリンの日本大使館で、シュトラウスから駐ドイツ大使来栖三郎に(ただし、直筆のオリジナルでなく自筆譜を写真複写したものにシュトラウス自身の自筆の献呈文を添えて)手渡された後、7月19日に東京に到着した。同日、イベールの曲「祝典序曲」も到着し、それと前後してピツェッティの曲「交響曲イ長調」も日本に届いた。

 

しかし、ブリテンの曲は到着したものの議論を巻き起こす。曲が「シンフォニア・ダ・レクイエム」(鎮魂交響曲)だったからだ。「日本の紀元2600年を祝う場にふさわしくない」という理由に加え、イギリスが敵性国家(先に締結した日・独・伊 三国同盟により)になったので、結局ブリテンの名は消え、作品は演奏されなかったが、委嘱料の支払いは約束通り7,000円(今の価値で約1,000万円)行なわれている。なお、ブリテンの作品に関しては、従来から「レクイエム」の名を冠したことなどについて様々なことが言われてきているが、この曲の成立にはブリテンの個人事情も絡んでおり、事情は複雑である。少なくとも一部資料に見られる「返却」は行われていない。

 

各国から送られてきた総譜は山本直忠(山本直純の父)が校正にあたり、この演奏会のために6団体から160名によって特別に結成された「紀元二千六百年奉祝交響楽団」の下振りには斉藤秀雄(小澤征爾の師匠)があたったそうである。演奏会の練習は10月12日から2ヶ月間にわたって実に30回も行われた(初演もの4曲なら仕方ない?)が、オーケストラの編成の規模が大きすぎたのか、はたまたこれら4曲の演奏レヴェルが当時の日本のオ−ケストラには高すぎたのか、音を合わせることすらあまりうまくは行かなかったようである。

 

「紀元二千六百年奉祝交響楽団」の編成は、新交響楽団(現NHK交響楽団)、中央交響楽団(現東京フィル)、東京放送管弦楽団、宮内省楽部(現宮内庁式部職楽部)、東京音楽学校(東京芸術大学)、星桜吹奏楽団の6演奏団体(なお、資料によっては7団体とするものもあるが、その場合に勘定される「日本放送交響楽団」は、新響がラジオ出演する際に名乗る名称であり、新響と同一団体であるので、ここでは6団体とした。)のメンバー総勢164名(演奏会によって1人抜けたらしく、163名とする資料もある)からなった。

 

 

 

 

 
| 短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係 | 13:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第4回)

短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第4回)

 

 

第2章 祝典行事(その1)

 

その1 記念式典

 




1940年11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。この行事には約5万人が参加したという。この
式典のため(だけ)に寝殿造の会場(のちに光華殿)が設営された。翌日11日には同会場で奉祝会が行なわれ、また観兵式(軍事パレ−ド)や観艦式(軍艦のパレ−ドのようなもの)、美術展覧会、武道天覧試合などの関連行事が11月14日まで繰り広げられて、国民の祝賀ムードは最高潮に達した。街では花電車が走り、提灯行列ににぎわい、おおっぴらに昼酒が許されたという。首都東京だけでなく、日本各地で同様の祝賀行事が行われた。

 

 

その2 奉祝音楽会

 

そしていよいよ本題に入ることとなる。記念の演奏会を企画したのだ。具体的には『恩賜財団紀元二千六百年奉祝会』(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁近衛文麿、会長徳川家達)と『内閣二千六百年記念祝典事務局』が考案した計画に基づくもので、その点では前述の行事と同一であるが、『我が国と友好の厚い数カ国から「音楽で祝いたい」と言ってきた』との意向が奉祝会に伝えられた(疑わしいもので、政府が直接委嘱したのが正しい解釈と思われる)のが企画の発端であった。

その後、外務省、関係国大使の斡旋などもあり、企画は順調に進んでいったが、肝心の奉祝会に音楽に精通した人間がいなかったことから、急遽音楽家やNHKの洋楽担当者などが奉祝会のスタッフに名を連ねることになった。その結果、
委嘱依頼を行ったのは、アメリカ(対日関係の悪化を理由に拒絶)、イタリア、ドイツ、ハンガリー(何れも枢軸国)、フランス(当時ドイツの占領下にあり、枢軸国の傀儡政権)、それにイギリスの6ヶ国とし、受諾した各国からは作曲家が示された。それによると、イタリアはイルデブランド・ピッェッティが、ドイツはリヒャルト・シュトラウスが、ハンガリーはシャンド−ル・ヴェレッシュが、フランスはジャック・イベ−ルが、イギリスはベンジャミン・ブリテンが作曲することとなる。

 

 

 

 

 
| 短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係 | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第3回)

短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第3回)

 

 

「短期集中連載」と言いながら、『短期』も『集中』とも名ばかりで、第2回の掲載から少し間が空いたのだが、引き続きこの短期集中連載を今度こそ『短期間』で『集中』して掲載していきたいと思いますので、ぜひともお付き合いのほどをよろしくお願いいたします。



第1章 国家的プロジェクト

 

その2 『幻のオリンピック』 東京と札幌

 




東京オリンピック(正式名称
第12回オリンピック東京大会)は、東京市(当時)の代々木・駒沢地区(計画後に神宮外苑は管轄の内務省神社局がこれに強硬に反対したため、以後の計画は駒沢のみとなる)を中心に開催される予定の夏季オリンピックで、1930年に当時の東京市長、森田秀次郎が提案し、IOC委員の嘉納治五郎(柔道の父)らの協力で、1932年のIOCロサンゼルス総会で立候補した。そして1936年のベルリンオリンピック開幕前日の7月31日に開かれたIOCベルリン総会で、対抗するフィンランドのヘルシンキに9票差の36票を獲得し、東京オリンピック開催が決定した。このベルリンでのIOC総会ではヘルシンキが有利とされていたが、逆転での決定であった。

 

当時は夏のオリンピック開催国に冬のオリンピック開催の優先権があったため、国内で札幌と長野、新潟が開催を争ったが、結局札幌に落ち着き、翌年のカイロでのIOC総会で正式に決定した(正式名称第5回冬季オリンピック札幌大会 ただし正式には第5回は1948年開催のスイス・サンモリッツ大会)。

 

しかしながらここでも日中戦争の影が甚大で、1938年7月16日に政府は東京と札幌でのオリンピックの正式に中止を決定した。IOCは夏季オリンピックの代替地をフィンランドのヘルシンキとし、冬季オリンピックの代替地にスイスのサンモリッツ、さらにはドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンに指名したが、1939年の第二次世界大戦勃発により、中止となっている。

 

 

 

 

 
| 短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係 | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第2回)

短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第2回)

 

 

第1章 国家的プロジェクト

 

その1 日本万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会)

 





紀元2600年記念日本万国博覧会は、東京市(当時)で開催する日本初の国際博覧会で、会場は月島4号埋立地(現在の晴海地区)をメインとして、ほかに横浜・山下公園周辺も会場とし、「東西文化の融合」をテーマに、3月15日から8月31日までの170日間にわたり開催を予定していた。余談だが、現在も隅田川に架かる可動橋として親しまれている勝鬨(かちどき)橋は、当時市内中心部と博覧会場を結ぶアクセス路として建設され、当時隅田川を航行する船舶の多さから、また日本の技術力の高さを誇示するために、日本の技術力のみで建てられており、格式ある美しいフォルムを持った『東洋一の可動橋』として同年に完成させたそうだ。

 

この万博には観客動員を4500万人を予定しており、約50カ国の参加を予定する一大国家的イベントになるはずであった。すでに会場の設計も出来、前売り券の販売も開始されていたが、しかしながら1937年に勃発した日中戦争の激化により、軍部の反対と資材の欠乏、参加国の減少が確実になったことなどで、1938年に無期延期(事実上の中止)が決定したため幻に終わったのであった。ここでまたまた余談であるが、1970年の大阪万博(正式名称は日本万国博覧会)開催の折、この『幻の』万博入場券を持つ人から「延期になった東京万博のチケットはどうしてくれる!」という声が起こり、そのチケットを持つ人は特例として、使用可能(券面番号確認後に各博覧会の招待券が発行され、券そのものは返却された)となった。2005年の愛知での「愛・地球博」(正式名称日本国際博覧会)でも同様の措置が取られ、大阪では約3000枚が、愛知では約90枚が使用されたという。

 

 

 

 
| 短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係 | 13:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第1回)

短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係(第1回)

 



9月8日の早朝(現地時間は7日)アルゼンチン・ブエノスアイレスで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、2020年のオリンピックの東京開催が正式決定された。非常に喜ばしく、明るいニュ−スに週末の日本全体が包まれ、週を明けてもなおその余韻が漂っている。

話は変わり、今日はなんだかキナ臭い話題かと思われたり、または歴史(日本史)の講義かと思われたかもしれないが、そんなことはなくて、純粋に『音楽的観点』からの考察(当初は脱線気味ですが、この今は忘れ去られてしまった皇紀という紀元、そして皇紀2600年という年に計画された国家的イベントが、いかに壮大であったかということを知っていただきたいと思ってので、あえて書き記しております)ですので、ちょっと『硬い内容』(いつもそうですが…)ですけれど、ちょっとだけガマンして最後までお読みいただきたいと思います。

 

序章 皇紀2600年とは

皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(きげん=歴史上の年数を数える出発点となる年。紀年法)で、1872(明治5)年に明治政府が、神武(じんむ)天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年としたものである。

古くから人々の間に語り継がれている「神を中心」とした物語である神話では、神武天皇は、日向(ひゅうが)国高千穂の宮にいたが、天下の政治(まつりごと)を行うべく、はるばる東遷(とうせんん=東の方へ移ること)の旅に出て、途中幾多の困難に遭いながら大和の国を平定し、大和橿原の宮で即位する。それが西暦紀元前660年2月11日(この日が今で言う「建国記念日」、その当時は「紀元節」と言っていたものの起源)だというのだ。

戦意高揚などを目的とし、そして日本が世界の一流国であることを内外に証明するために時の政府は、1940年の『皇紀2600年』の記念の年にさまざまな国家プロジェクトを用意したのだった。それは1935年に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を正式に発足させ、公共事業(と言っていいのだろうか?)としては神武天皇を祀る橿原(かしはら)神宮と神武天皇の御陵である畝傍(うねび)山東北陵の拡張整備、代々木の天皇陵の参拝道路の改良、国史館の建設や、外地(占領地域)の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州)などの建立を行った。また「日本文化大観」の編纂など、天皇制を主軸とする文化・歴史感をより強固にする書籍の刊行を行ったり、東京で日本万国博覧会の開催や、東京での夏季オリンピック大会や札幌での冬季オリンピックの開催という、空前絶後の一大ビックイベントのオンパレ−ドを計画したのだった。

地方や民間レベルでも様々なものが企画され、出版や記念碑、記念植樹、公園の整備(宮城外苑整備事業や光が丘公園、小金井公園など)、神社への狛犬や石像などや地域での国旗掲揚台の奉納などがおこなわれた。これらの多くは建物の建築や施設及び地域の整備など大掛かりな物であり、資金が必要で、このため市民に対し献納という名の寄付金募集がおこなわれたという。

 

| 短期集中連載:皇紀2600年とクラシック音楽の知られざる関係 | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |