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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第10回

長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第10回 


第1章  番外編 ウィ−ンのコンサ−トホ−ル

 


前回まで3回にわたってウィ−ンのオペラハウスを紹介したが、ウィ−ンのコンサ−トホ−ルも番外編として紹介したい。


 

ウィーンフィルの本拠地、楽友協会





 

ウィーン・フィルの拠点ホールで、世界中にテレビ中継される「ニュー・イヤー・コンサート」の会場としてもよく知られる世界屈指のコンサートホールとして名高いウィーン楽友協会ホール。ドイツ語でウィナー・ムジークフェライン(Wiener Musikverein)、直訳するとウィーンの音楽協会という意味。

 

この協会は、1812年に「すべての音楽分野を向上させること」を目的に組織され、世界一の音楽都市らしく、音楽学校を併設し、演奏会の主催を始めたが、僅か700の座席数であり、聴衆の急速な増大に対応できるものではなかった。アルヒーフやコンセルヴァトリウムを抱え総合的な飛躍を求める楽友協会にとっても、更に多くの施設が緊急に必要とされた。そこで1863年になって皇帝は楽友協会へカールスプラッツを挟んでカール教会と向かい合う大きな敷地を提供し、1869年に現在の場所であるカールス広場に移転した。新しい建物は、建築家テオフィール・ハンセン設計の新ルネッサンス様式による現在の外観と同じ建物で、開場は1870年の16日で、同月15日にはヨハン・シュトラウス兄弟による舞踏会が開催されている。そして現在、アムステルダムのコンセルトヘボウ、ボストンのシンフォニー・ホールとともにいわゆる世界3大コンサートホールに数えられる。その後、ブラームス、マーラーらが数々の初演を行うなどその歴史は栄光に包まれている。

 





1,744
の座席と300の立見席を持つ大ホール(グロッサーサール)595席のブラームスザールと呼ばれる小ホール、ゴットフリート・フォン・アイネムザールという室内楽専用ホール、さらには2004年に地下に4つの多目的ホールが造られた。

 

大ホールの最大の特徴は音響が素晴らしく良いこと、すなわち残響が長いことである。大ホールの特徴は伝統的なシューボック(幅約20メートル、奥行き約56メートルの長方形、靴箱型)。幅が狭い上に幅と天井の高さがほぼ同じことから、壁から天井へ、天井から床へ、またその逆へと素晴らしい反射音が生まれ、さらに天井の材質が厚いため、低音の響きもよく、また1階バルコニーに表面が不規則な女人像を配置することによってより細やかな反射音も生まれる。残響は2秒で世界トップクラスの数値で、ブラームス、マーラー、ブルックナーらはこのホールでの演奏を念頭において作曲しているので、ここで聴く彼らの音楽は格別である。特に2階のバルコン席の音が素晴らしいといわれている。そして、金箔を全面に施した内装も豪華で美しく、黄金ホールと呼ばれている。





      2大コンサートホールのひとつ、コンツェルトハウス





楽友協会と並んでウィーンを代表するコンサートホール、コンツェルトハウスは、19131019日に開場した。ウィーン国立歌劇場やフォルクスオパーの時にも名前が出てきた皇帝フランツ・ヨーゼフ列席のもと、リヒャルト・シュトラウスが書き下ろした「祝典前奏曲」とベートーヴェンの「交響曲第九番」が演奏された。このようなプログラム、すなわち現代の音楽と過去の名作を組み合わせる方法は、その後もコンツェルトハウスの基本となった。そして、現在でも伝統と革新という2つの大原則は脈々と生きている。伝統(過去の傑作)と言うのはどこの劇場でも大切にするであろうが、現代音楽を大切にするという原則は、大変重要である。実際にこの劇場が果たしてきた役割は非常に大きく、ストラヴィンスキー、バルトーク、ラヴェルらのウィーン初演やウェーベルン、ベルクら新ウィーン楽派の初演、その他にも無名な作曲家の作品も数多く取り上げてきた。なお、当時の時代背景だが、翌19146月にはサラエボでハプスブルク家のフェルディナント大公が暗殺され、それをきっかけに第一次世界大戦が勃発したので、まさに革命前夜という時代であった。オ−ストリアはその第一次世界大戦で国土の4分の3を失った。口の悪い人は「あの時建てておいてよかった」と言うくらいだ。その後ナチスによって娯楽施設として使われた不幸な時代もあったが、第二次世界大戦後はウィーンの音楽発信基地として活躍を続けてきた。





 

さて、コンツェルトハウスだが、ユーゲントシュティール様式によって建てられた壮麗な建造物。中は細かく分かれて実に5つものホールを持っている。1番大きな1,880席の大ホール、700席のモーツァルトザール、330席のシューベルトザールとこの3つのホールを中心に、ノイヤーザール、シェーンベルクザールと曲目や演奏形態によって使い分けられている。

 

コンツェルトハウスの場所だが、リンクのすぐ外側の3区にあり、隣は冬は屋外のアイススケート場、夏にはプロレスの試合会場にもなる。斜向かいにはベートーヴェン公園とベートーヴェンの記念像がある。そしてすぐ近くには、かの有名な金色に輝くヨハン・シュトラウス2世がヴァイオリンを弾いている像のある市立公園もある。





この「長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス」はしばらく休載いたします。再開は5月10日(月)よりいたします。

| 長期連載シリ−ズ 世界のオペラハウス | 10:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第9回
長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第9回




 

第1章  ウィ−ンのオペラハウス(その4)

 

 

  アン・デア・ウィ−ン劇場

 



  アン・デア・ウィ−ン劇場の外観


そしてもうひとつ、アン・デア・ウィーン劇場。ウィーンでもっとも古い劇場で、歴史的な建造物でもあり、輝ける歴史を誇る。モーツァルトの「魔笛」の台本作家で、興行主でもあり、さらにパパゲーノを演じたシカネーダーは、「魔笛」の初演をアウフ・デア・ヴィーデン劇場で行った。その劇場が取り壊されるにあたり、すぐ近くにシカネーダーが「魔笛」の大成功によって築いた私財を投じて造ったのがアン・デア・ウィーン劇場である。

1801年にタイバーのオペラ「アレクサンダー」で開場。増改築を重ねたため、200年前当時の部分は限られているが、客席はほとんど200年前のものが残っている。また、当時の正面玄関(現在は正面からみて右側)には、パパゲーノを演じるシカネーダーと3人の童子の彫刻が残るパパゲーノ門が現存している。




 シカネ−ダ−が建設した当時の正面玄関
 玄関上部にパパゲ−ノと3人の童子の像がある

 
シカネーダーはその後破産して劇場を手放すが、芸術監督の地位は守り、ベートーヴェンを音楽監督として招聘する。ベートーヴェンは1803年から1804年までこの劇場に住み、オペラ「フィデリオ」、「クロイツェル・ソナタ」「交響曲第3番・英雄」など数々の名曲を作曲した。さらには「交響曲第5番・運命」「交響曲第6番・田園」「ピアノ協奏曲第3番」「ヴァイオリン協奏曲」もこの劇場で初演した。19世紀中盤になるとウィーンではオペレッタ全盛時代を迎え、現代に残る名作と呼ばれるウィーンのオペレッタはほとんどがこの劇場で初演された。具体的には、ヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」や「ジプシー男爵」、カール・ミレッカーの「乞食学生」、フランツ・レハールの「メリー・ウィドー」などが挙げられる。そして、第2次世界大戦の影響で閉鎖するが、フォルクスオパーと同じく1945年以降はウィーン国立歌劇場の代替劇場として194510月に「フィデリオ」で開場。1955年に国立歌劇場が再開場すると、大改修工事に入り、1962年にウィーン祝祭週間の主会場として再開場。1983年にはロイド=ウェーバーの傑作ミュージカル「キャッツ」のドイツ語版初演が行われ、ミュージカル劇場として有名になる。その後もシルヴェスター・リーヴァイのミュージカル「エリザベート」空前の大ヒットを記録しロングランとなる。さらには1999年からは「モーツァルト!」も大ヒットとなった。





  劇場内部 ここもほとんどが200年前の建設当時のもの


そして、モーツァルト生誕250周年の2006年に再びオペラハウスとして復活。国立歌劇場、フォルクスオパーのレパートリー方式とは異なり、スタジオーネ方式によって、1ヶ月に1作品のプレミエ上演という大変意欲的なオペラハウスへと変貌した。


ウィーンの中心部の南、ナッシュマルクトという市場に面して立つ。アン・デア・ウィーンとは、“ウィーン川に沿った”という意味だが、ウィーン川は現在、ナッシュマルクトの地下を流れているので見ることはできない。座席数は1,051席、立ち見が32席。

 


 

   観客でいっぱいの劇場内
 
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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第8回
長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第8回




 

第1章  ウィ−ンのオペラハウス(その3)

 

 

ウィーン・フォルクスオパー





オペレッタの殿堂、ウィーン・フォルクスオパー。オペレッタを中心にオペラ、ミュージカル、バレエが上演されるが、どのオペレッタやオペラでもドイツ語での上演が基本となる。名前の通りフォルクス(民衆)のための劇場としてウィーンっ子たちに親しまれている。

 
ウィーン国立歌劇場の時にも書いたハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフの即位50周年を記念して、皇帝記念市立劇場として開場した。当初は、ウィーンなまりによる演劇を上演していたが、1904年、ドイツロマン派オペラの金字塔「魔弾の射手」を皮切りにオペラが上演されるようになった。その時の指揮は、当時ウィーンで最も有名な指揮者兼作曲家だったアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー。彼は1906年にフォルクスオパーの初代首席指揮者に任命され、宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)で上演が認められていなかったプッチーニの「トスカ」やR.シュトラウスの「サロメ」などのオーストリア初演を指揮した。そして、1924年にはシェーンブルクの「幸福な手」の初演、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」のウィーン初演などが行われた。その後、ウィーン市の傘下になり、パリにおけるパリオペラ座とコミック座のような関係で、オペレッタや比較的軽いオペラを上演するようになった。第2次世界大戦後の1945年からは国立となり、消失してしまったウィーン国立歌劇場の公演も行われたが、1950年代からは「キス・ミー・ケイト」「ウェストサイド物語」「マイ・フェア・レディ」などアメリカのミュージカルも上演されるようになった。








場所はウィーン市の北西部、ヴェーリンガー・シュトラ-セという通りに位置し、シーズンはウィーン国立歌劇場と同じく9月初旬から630日までの10ヶ月間、約300公演がレパートリー方式によって、ほぼ毎日上演される。座席数は1261席で、立見席は72席、平土間を4層のボックス席が取り囲む。何度となく来日し、わが国でもファンを獲得したほか、メラニ−・ホリデ−やアドルフ・ダラポッツァ、ペ−タ−・ミニッヒなどのオペレッタ界のスタ−歌手を輩出した。

オペレッタといえば、歌や踊りと同様にセリフの部分が重要になってくる。時には時事ネタのアドリブを交え、ウィ−ンっ子たちを笑わせたりするが、そんなときはキョトンとするしか仕方がない。なお民衆のための劇場とはいいながら、地元ウィーンの口うるさい年寄りが多いので、あまりラフな服装は嫌われるので注意が必要。また、時々ではあるがガレリ−(最上階)の客席に地元の小・中学生が団体鑑賞にやってきて(羨ましい!)いるが、中には関心のない子もいて、少々うるさいのが難点だ。

 

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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第7回
長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第7回

 

第1章  ウィ−ンのオペラハウス(その2)

 

 

オペラの殿堂 ウィーン国立歌劇場

 






ウィ−ンといえばまずは何よりオペラの殿堂ウィーン国立歌劇場、ドイツ語でウィーナー・シュターツオパー。ドイツ語圏最高のオペラハウスとして輝かしい歴史と伝統を持ち、今もって世界に君臨する名門劇場である。ハプスブルク帝国晩年の皇帝フランツ・ヨーゼフの時代に宮廷歌劇場として国の威信を賭けて作られた。フランツ・ヨーゼフは、城壁を壊し、現在のリンク通りと呼ばれる環状道路を作るという都市計画を実行したが、その目玉のひとつがこのオペラハウスであった。なお、フランツ・ヨーゼフの皇后は、かの有名なエリザベート(シシィ)である。


簡単に歴史を振り返ると、1861年から工事が始まり、7年半の歳月をかけ、1869年5月25日、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」(ドイツ語での上演)で開場した。ハプスブルク家にとって、この時代がどういう時代かと言うと、イタリア統一戦争に敗れてイタリアから撤退、プロイセン王国のビスマルクにも破れ、さらには1867年にハンガリーに政治的な独立を認める形でオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立、と政情は不安定な時代であった。





 
ウィ−ン国立歌劇場の正面玄関 中央階段が見える


その後、音楽監督のウィルヘルム・ヤーン、グスタフ・マーラーらが最初の黄金時代を築いたが、特にマーラーは1897年から1907年という10年の在職期間にワ−グナー作品に力を入れ、世界的なオペラハウスの基礎を作った。第1次世界大戦によってハプスブルク帝国は滅び、名前が国立歌劇場に変わったが、リヒャルト・シュトラウスらによってオペラハウスは高い水準を維持し続けた。1945年3月、第2次世界大戦の連合軍の爆撃によってほぼ全壊してしまったが、戦後はフォルクスオパーとアン・デア・ウィーンの2つの劇場で、オーストリア人の希望の光のように上演が続けられた。そして膨大な費用をかけて再建工事が進められ、1955年11月5日、カール・ベームの指揮によってベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」で再開場を果たした。その後もヘルベルト・フォン・カラヤン、ロリン・マゼ−ル、クラウディオ・アッバードらが音楽監督、首席指揮者を務め、2002年シーズンからは小澤征爾が音楽監督に就任して大きな話題になった。また、2010年からは、オーストリア人指揮者のフランツ・ウェルザー=メストがその後任に就くことが発表されている。2005年11月5日には再開場50周年記念として、素晴らしい指揮者とスター歌手が一同に集められ、ガラコンサートが行われた。数多くの初演も行われているが、主なものとしてはマスネの「ウェルテル」、シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」「影のない女」などが挙げられる。




 
誰もいない開場前の客席 中央にパルテレ(平土間)の立見席が見える


さて現在のウィーン国立歌劇場を紹介しよう。まずシーズンは9月初旬(その昔は1日からだったが、今は特定の日は決められていない)から6月30日までの10ヶ月間、約300公演がレパートリー方式によって、ほぼ毎日上演される。作品の柱は100年以上前からモーツァルト、ワグナー、ヴェルディ、リヒャルト・シュトラウス等だが、ドイツ、イタリア、フランス、ロシア、東欧諸国のオペラと非常に幅広いレパートリーを誇る。指揮者や歌手も国際的なスターたちが連日連夜登場するが、若い将来有望な歌手も積極的に起用。このことによって、バルバラ・フリットリ、ブリン・ターフェル、ボー・スコウフス、アンジェラ・ゲオルギュー、アンドレア・ロスト、ステファニア・ボンファデッリらがこの劇場から世界へ巣立って行った。
 
そしてこの劇場の最大の特徴は何と言ってもオケピットにある。オケピットに入っているウィーン国立歌劇場管弦楽団は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体となっており、この楽団のメンバーによってウィーン・フィルの構成されているのである。このことがウィーン国立歌劇場の音楽的水準の高さを最も端的に表す事例であろう。 




 オ−ケストラ・ピット 楽団員の顔も


劇場の形は典型的な馬蹄形で、平土間(パルケット、パルテレ)の上に3層のロージェ、更にその上にバルコン、ガレリーという天井桟敷席がある。客席は1,709席だが、立見席が実に567もある。画期的なのは、4階、5階の立見席だけではなく、1階の平土間の後方という素晴らしい場所に立見席のスペースがあり、
コーヒー1杯よりも安い値段でオペラが鑑賞できることを、ウイーン子は誇りにしている。立ち見券を購入する場合は、オペラ座に向かって左側の入り口に、開演数時間前に並び、場所を取り合う。開場と同時に立ち見スペ−スまで行って、手すりに自分の場所にハンカチを巻くのがウィーン流。このシステムは世界中から集まってきている音楽大学で勉強する学生たちにとても喜ばれている。





 開演を待つパルテレの立見客 ここは4ユ−ロ(約500円)その前にはウン万円の座席のお客が座っている 



 中央ロ−ジェの向かいにあるティ−・ル−ム



 
中央のホワイエ ここは戦災を免れたもので1869年当時のもの


正面のロイヤルボックスのすぐ後ろには、ロイヤル・ティールームが作られていて、休憩時間でも高貴な人々のプライバシーが守られるようになっている。現在オーストリアに皇帝はいないので、このティールームも一般に貸し出しているが、そのレンタル料は、一説には1分間に付き100ドル以上ということである。興味とお金がある人は是非。一般の人は休憩中に3つのホワイエがある。舞台に向かって右側がグスタフ・マ−ラ−・ザ−ルで、この広間にはマ−ラ−の肖像画とピアノが展示している。また壁面にはモ−ツァルトの『魔笛』をモチ−フにしたコブラン織りのタペストリ−がある(なので昔はコプランザ-ルと言っていた)。左側はマモ−ル・ザ−ルと言い、大理石(マモ−ル)で覆い尽くされた広間だ。中央には正面のホワイエがあり、この部分は戦災から守られた(ということは1869年当時のもの)。ここにはマーラー、リヒャルト・シュトラウス、ベ−ム、カラヤン、クリップスの胸像が置かれている。




 右側にあるグスタフ・マ−ラ−・ザ−ル 壁にはコブラン織による「魔笛」のタペストリ−がある



 グスタフ・マ−ラ−・ザ−ルにあるマ−ラ−のピアノ



 左側にあるマモ−ル・ザ−ル 全面が大理石で作られている 休憩中は大きなビュッフェで賑やかになる


字幕に関しては、
2001年シーズンからフィガロ・システムという最新鋭のシステムを導入しているが、聴衆ごとに1つずつ小さなモニターがあるという画期的なもの。具体的には自分の座席の前の座席の背もたれの後ろ側に10cm×30cmほどの小さなモニターが埋め込まれており、それを各自が操作するというもの。ドイツ語か英語を選択できる他、見たくない人は消すことも出来る。また、日本語での字幕も出るようになる、という話も聞いているが、今のところ実施されていない。同様のシステムはロンドンのコヴェントガーデン、ミラノのスカラ座、バルセロナのリセウ劇場、NYのメトロポリタンなどにも導入されている。



 劇場内部 天井にはロブマイヤ−のシャンデリアがある


また、この劇場は小澤征爾が音楽監督に就任する前から日本との関係は非常に深く、劇場の公式HPにはドイツ語、英語、日本語の3ヶ国語で記載がされている。当日のプログラムにも1部の古くからの演出のものを除いては、日本語であらすじが書いてあるのも嬉しいものだ。また、以前は佐々木典子が専属歌手として活躍し、現在では藤村実穂子、甲斐栄二郎もレギュラー歌手として活躍している。また、ほぼ毎日劇場のガイドツアー(日本語ガイドツア−もある)もあり、音楽の都ウイーンの人気スポットでもある。

私もこの劇場では数多くの素晴らしい舞台を見てきた。おそらく世界中の劇場の中で最も多くオペラを見ているのはこの劇場であろう。綺羅星のようなスター歌手たちが連日のように出演し、15年くらい前までは、3大テノールも当たり前のように出演し、互いに競い合っていた。メトロポリタン歌劇場と同様にオーソドックスな演出による美しく豪華絢爛な舞台が多かったが、新しい解釈による新演出のものも増えつつあり、ますます重要な役割を担っている。





 カ−テンコ−ル中の劇場内 連日素晴らしい上演がくりひろげられる
 

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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第6回

長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第6回

 

第1章  ウィ−ンのオペラハウス(その1)






ウィ−ンの中心にそびえる、聖シュテファン大聖堂



 

ウィーンあれこれ


ミラノ、パリ、ベルリン、NY、ザルツブルクと世界各地に音楽都市があるけれど、まず最初はやはり誰もがあこがれる世界一の“音楽の都”ウィーンからはじめるのが筋というものだろう。


ウィーンは“音楽の都”として名高いが、決してそれだけではなく、他にも有名なものがたくさんある。例えば、300年以上の歴史を誇るカフェ。ウィンナー・コーヒーという飲み物は存在しないが、アインシュペ−ナ−が最もそれに似ている。ウィーンっ子たちはエスプレッソにミルクと泡を加えたメランジュというコーヒーを毎日のように飲んでいる。そして、ザッハートルテに代表されるケーキなども良く食べる。そしてレストランもヨーロッパの中央に位置する場所柄、チェコ、ハンガリー、ユーゴなどの東欧の料理、トルコやインド料理、ロシア料理、そしてもちろんイタリアン、フレンチ等々。中華や和食の店もたくさんある。ウィンナー・ソーセージもウィーンがルーツ。

酒を飲むのであれば、ホイリゲと呼ばれるウィーン風の居酒屋。自分の畑で取れた新種のワインを飲ませるのがスタイル。ウィーン市北部のドナウ河の近くにあるグリンツィング、ハイリゲンシュタットあたりのホイリゲが特に有名である。また、街中にイルミネーションが輝き、市が立ち並ぶクリスマスの美しさも有名。市場で飲むグリューワインという赤のホットワインは体を芯まで温めてくれる。それからNY、ジュネーヴに次ぐ第3の国連都市としても知られ、市内からドナウ川を渡ったところには、国連施設(UNOシティ)の高層ビルが立ち並ぶ。また、数多くの国際会議や学会や見本市も行われる。ハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿は素晴らしいロココ様式の宮殿で、世界遺産に指定されており、また宮殿の庭園にある動物園はヨーロッパ最古である。そしてウィーン郊外に広がるウィーンの森などの美しい自然も魅力たっぷり。





ハプスブルグ家の栄華を誇るシェ−ンブルン宮殿

 
いきなりいつもとまったく違う切り口になってしまったが、脱線ついでに音楽以外の芸術の話にいこう。まずは1900年前後に世紀末芸術が花開き、数多くの芸術家たちがウィーンで活躍した。ユーゲントシュティールの代表的な画家で保守的な芸術協会を嫌いはなれ、自らセセッション(分離派協会)を立ち上げ、かの有名な金色に輝く「接吻」等、傑作群を残したグスタフ・クリムト。この「接吻」はベルヴェデーレ宮殿上宮のギャラリーにある。そして、多くの自画像を描き、28歳の若さで死んでしまったエゴン・シーレ。表現主義として分類されることの多いオスカー・ココシュカ。


画家以外でもウィーン市内に今も数多くの作品が残る建築家で、オットー・ワグナー。近代建築の走りで、機能主義的建築の父とも言われている。時代はやや現代になるが、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーは、ウィーンのガウディとも呼ばれるアーティストで、彼の自由な発想による建築物はウィーン市内でも異彩を放っている。精神分析学者として名高いジークムント・フロイトも世紀末のウィーンで活躍した心理学者。

またウィーンは、無数の美術館、博物館があり、私の知っている限りこれほどの美術館がある都市は、世界中でウィーンとパリが図抜けていると思う。例えば、ヨーロッパ最大規模の美術史美術館では、世界一のブリューゲルのコレクションや、フェルメール、レンブラント、ルーベンス等、素晴らしい絵画で溢れている。


以上ウィーンの代表的なもののほんの一部分を列挙したが、これらすべてのことに関わっているのが、ハプスブルク帝国である。600年以上に渡りヨーロッパ全土に影響を及ぼし、全盛期には陽の沈むことのない帝国と言われた。特に有名なのがマリー・アントワネットの母、マリア・テレジア。彼女は40年間もの間、女帝として辣腕を発揮し、16人もの子供を産み、列強との婚姻を進め、所領を増やしていった。このハプスブルク帝国の首都ウィーンがヨーロッパ屈指の大都市として君臨したことによって、無数の芸術家がウィーンに集まってきたと言えるであろう。





市立公園にあるヨハン・シュトラウス像。ライトアップがまた美しい


さて、前置きがすっかり長くなってしまったが、いよいよ音楽の都の話に入っていこう。今でもウィーンが世界一の音楽の都と言われているのは、やはり数多くの偉大な作曲家たちが活躍したからである。まずはモーツァルト、ベートーヴェン。順不同に挙げていくと、ハイドン、グルック、チェルニー、サリエリ、ブラームス、クライスラー、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、フーゴ・ヴォルフ、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン等々、枚挙に暇がない。そして絶対に忘れてならないのが歌曲王シューベルトとワルツ王ヨハン・シュトラウス。


まずシューベルトは、ウィーン生まれのウィーン育ちで、31歳の若さでウィーンで没した作曲家。旅行もほとんどせず、一生のほとんどをウィーンで過ごした生粋のウィーンの作曲家。「冬の旅」、「魔王」、「野バラ」などの多数の歌曲を書いたが、他にも「未完成」を始めとする交響曲、「ます」を始めとする室内楽曲など、多方面で傑作を残した。


次にヨハン・シュトラウス2世。彼も一生のほとんどをウィーンで過ごした作曲家で、昔も今も彼ほどウィーンっ子に愛されている作曲家はいないであろう。かの有名な元旦のウィーンフィルのニューイヤーコンサートは、ほとんどヨハン・シュトラウス2世の曲でプログラムが組まれる。「美しき青きドナウ」や「皇帝円舞曲」などのワルツ、「ピッツィカート・ポルカ」「雷鳴と稲妻」などのポルカ、「こうもり」などのオペレッタ、他にもマズルカ、ギャロップ、行進曲などを残した。オペレッタと言えば「軽騎兵」のスッペ、「メリー・ウィドー」のレハール、「チャルダッシュの女王」のカールマン、「乞食学生」のミレッカーなどもウィーンで活躍した作曲家である。

 

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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第5回

長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第5回




 

序章  オペラってなに?(その5)

 

 

オペラとオペレッタとミュージカルの違い




 オペレッタの殿堂、ウィ−ン・フォルクスオ−パ−
 

このテーマに入る前にまず厳密な線引きが必要かどうかという問題があるが、私はあまり意味のないことだと思っている。

 ボーダーラインでどちらとも言えるような作品もあるし、特にアメリカの場合、オペラとミュージカルとの違いはとても微妙である。オペレッタの殿堂、ウィーンのフォルクスオパーでも最近ではミュージカルも上演されている。ともかく、オペラもオペレッタもミュージカルも舞台娯楽芸術であることは間違いなく、線引きはあくまで私の意見であることを了解して欲しい。

 

まずミュージカルと言われるものの起源だが、17世紀から18世紀にイタリアのヴェネツィアやナポリで大流行した喜歌劇的なオペラ、オペラ・ブッファがベースと考えられる。このジャンルは、モーツァルトの「フィガロの結婚」、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」などへ繋がっていく。一方、19世紀半ばにパリで大流行したオペレッタ。オッフェンバックの「天国と地獄」などが代表的なものだが、その後中心はウィーンへ移り、ヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」、レハールの「メリー・ウィドー」などの傑作が生まれ、その後中心地はベルリンへと移っていった。オペラ・ブッファがオペレッタに派生していったと考えられるが、オペラとオペレッタの違いは、オペラはあくまでも音楽と歌が中心であるの対して、オペレッタはセリフと音楽によって構成されること。そしてオペレッタは、カンカン、ギャロップ等、踊りのシーンが重要であることなどが挙げられる。





こちらはミュ−ジカルの聖地、ニュ−ヨ−ク・ブロ−ドウェイ

 

 そして、20世紀になると「学生王子」のロンバーグらがヨーロッパからアメリカに渡り、英語によるオペレッタ風のミュージカルを発表。ニューヨークではガーシュインがたて続けに傑作を発表し、それは今もなおブロードウェイとして栄えている。そして、ハリウッドではミュージカル映画が全盛期を迎えた。そして、ハッピーエンドの楽しく気楽なストーリーのものばかりではなく、社会問題をえぐったり、ドラマ性の高いものも増えてきた。1980年代に入るとロンドンではロイド・ウェーバーが「キャッツ」「オペラ座の怪人」など現在まで残る傑作を作曲。「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」などと一緒にロンドンのウェストエンドがブロードウェイに替わり、ミュージカルの発信基地となっていった。

 

 その後ディズニーが「美女と野獣」や「ライオン・キング」などで世界を席捲し、オペレッタのふるさとウィーンでは「エリザベート」というドイツ語のミュージカルが流行し、インドではほとんどの映画が自国産のミュージカル映画という状況で、今後も世界中で展開に目が離せない。そして、日本では劇団四季や宝塚歌劇団等が頑張っており、日本にはオペラファンを遥かに凌ぐであろう大勢のミュージカルファンがいる。





 大小のミュ−ジカル劇場が林立している

 

 さて本題のオペラ(オペレッタ)とミュージカルの違いに入ろう。まず最大の違いは音楽で、オペラはクラシック音楽、ミュージカルはジャズ等をベースにした音楽やポップスやロックなど現代の音楽が使われる。次に歌手の歌唱方法。オペラはあくまでも自分の体を楽器として最大限に使い、出来るだけ遠くに飛ばす発声をするが、ミュージカルの場合にはPAを通してマイクを使う。そして、ミュージカルはダンスと歌が一体となるが、オペラの場合、歌手が踊ることは非常に稀で、バレエやダンスのシーンはあくまでもバレエ・ダンサーが受け持つ。よって、オペラ歌手はあくまでクラシックの歌手だが、ミュージカルの歌手はダンサー出身だったり演劇畑出身だったりする。しかし、日本でも最近では音楽大学の声楽科を卒業して劇団四季等に入る人も多いらしい。また、演奏形態は、オペラではオケピットと言われる舞台前の空間にフル編成のオーケストラが入るが、ミュージカルの場合、バンドや小編成のオーケストラが中心となり、劇団四季などはテープを使って上演している。そして日本国内の上演の場合、オペラはほとんど原語で上演され、字幕が出るというのが普通だが、ミュージカルの場合にはあくまで日本語で歌われる。

 

 音楽に限ったことではないが、良いものはいつまでも残るものである。ロイド・ウェーバーの作品はそう遠くない将来、クラシック音楽のカテゴリーに入り、永遠に上演し続けられることであろう。 

 

 
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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第4回

長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第4回

 

序章  オペラってなに?(その4)

 

 

オペラの歴史と種類

 

 今週もまた序章である。いつまで序章なんだよとの声も聞こえてくるが、もう少しのご辛抱を、だって延々とやるのは、ワ−グナ−以降のオペラの伝統だから()今回はちょっと堅苦しく歴史のお勉強だ。


 第1回でオペラの誕生は1600年、中世ルネッサンス期のフィレンツェ、そしてオペラの中心はヴェネツィア、ナポリと移って行き、イタリア各地へ広まるところまで言ったと思う。

 

 そのころのオペラの花形歌手、つまりスターはカストラートであった。カストラートとは少年の時に去勢された男声の歌手のことで、喉は少年のままだが心肺機能は大人のため、声は力強く、しかも大変な高音まで出すことが出来た。モーツァルトが出てくる18世紀後半までは、スカルラッティ、ヘンデル、グルックらの作曲家は、カストラートのためのオペラを書いた。そのころの筋書きはオペラ・セリアと呼ばれる神話や歴史劇を舞台としたシリアスなものであった。それに対抗するような形でオペラ・ブッファという身の回りの出来事を喜劇的に描いたものがあらわれてきた。そして、それらはすべてイタリア語によるもので、オペラ=イタリアであった。唯一の例外がフランスで流行したオペラ・バレと呼ばれるオペラとバレエの融合した形態で、リュリ、ラモーなどの作曲家が出現した。一方、映画“アマデウス”でも描かれていたように、ウィーンではモーツァルトが母国語のドイツ語を使ったオペラを書き始め、「後宮からの逃走」「魔笛」などの傑作を生んだ。




 ドイツ最古のバロック劇場として知られるバイロイト辺境伯劇場

 

 再び話しをイタリアに戻すと、19世紀前半になるとベルカント・オペラという形式が流行し、美しく自然な声をいかに華麗にむらなく聞かせるか、というテクニックや旋律重視のオペラが中心になっていき、オペラの主役はカストラートからソプラノへと変わっていった。「セヴィリアの理髪師」のロッシーニ、「ノルマ」のベッリーニ、「ランメルモールのルチア」のドニゼッティの3人がその代表的な作曲家。そして時代はロマン派に突入し、オペラは宮廷、貴族のものではなく、市民のものへとなって行く。ドイツではベートーヴェンが「フィデリオ」(1814)を、ウェーバーが「魔弾の射手」(1821)を書いて、いよいよオペラはイタリアだけのものではなくなっていく。また、フランスでは、グラン・トペラ(グランド・オペラ)という規模が大きく大時代的ストーリー、大規模編成のオーケストラや合唱、バレエ・シーンなどが特徴のオペラが新興のブルジョア階級を中心に流行した。当時ヨーロッパ最大の都はパリだったため、ロッシーニやベッリーニなどもパリで活躍し、グランド・オペラを書いた。

 

つまりイタリアのパルマ近郊ロンコレという町で生まれたジュゼッペ・ヴェルディ。もう1人はドイツのライプツィヒで生まれたリヒャルト・ワーグナーである。現在、世界中のオペラハウスはこの2人の作品を中心にプログラムを組んでいると言っても過言ではないであろう。

 ヴェルディは「椿姫」「リゴレット」「アイーダ」「オテロ」など、ワ−グナーは「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指環」などを書き、オペラを総合芸術の高みへと押し上げた。




 オペレッタの殿堂、ウィ−ン・フォルクスオパ−

 

そしてイタリアでヴェルディの跡を継いだのが、「蝶々夫人」「トスカ」「トゥーランドット」などのジャコモ・プッチーニ、そして、ドイツでワグナーの後継者と呼べるのが、「サロメ」「エレクトラ」「ばらの騎士」などのリヒャルト・シュトラウスである。さらに19世紀も後半になるとオペラはイタリア、ドイツだけでなく、ヨーロッパ中に広がって行く。フランスでは「ホフマン物語」のオッフェンバック、「カルメン」のビゼー、「ファウスト」のグノー、「ウェルテル」のマスネ。ロシアでは「エフゲニー・オネーギン」のチャイコフスキー、「ボリス・ゴドゥノフ」のムソルグスキー。チェコではスネタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクなどがそれぞれの国の原語で民族主義的な作品を書いた。


 
また、オペラ・ブッファのジャンルは喜歌劇と呼ばれるオペレッタへと進化し、パリでは「天国と地獄」のオッフェンバック、ウィーンでは「こうもり」のヨハン・シュトラウスが傑作を生み、それはやがてミュージカルへと変貌を遂げる。


 
次回はオペラとミュージカルの違いなどを。

 

 

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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第3回

長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第3回


 

序章  オペラってなに?(その3)

 

 

劇場内のお作法




 ロココ風の内装が美しい、ミュンヘンのキュヴィリエ劇場

 

 演奏中の作法は周りの人や演奏家に迷惑をかけない、この1点に絞られる。しかし、あまり堅苦しく考える必要はなく、あくまでも一般常識の範囲で、例えば電車に乗っている時と同じようなマナーを心がければよいであろう。足を組んで廻りの人に迷惑をかけたり、貧乏ゆすりをしたり、肘を必要以上に張ったり、ガムをクチャクチャ噛んだり、暑いからといって扇子をバタバタ等はすべてNG。自分が気をつけるだけでなく、周りにこれらのタブーを犯している人がいれば積極的に注意しよう。もちろん私語は厳禁、指揮者が入場した時点で口を噤まなければならない。携帯電話はマナーモードにするのではなく、必ず電源を切ろう。時計のアラームも忘れがち。最近目立つのは演奏中にキャンディーやガムを取り出す際に起きるカサカサという音。これが実に良く響いてしまうのだ。さらに最悪なのは、大きな音がしないように配慮しているのか何だか分からないが、少しずつ包みを開けていく人。いっそのこと思い切ってビリッと開けてくれ!と叫びたくなる。クシャミや咳などはある程度仕方ないであろうが、ハンカチを口に当てるくらいはしたいところ。


 会場にコートやら大きなかばんやら何でもかんでも持って入る人。よほど小さな劇場以外はクロークがあるはずである。おそらく帰りにクローク待ちの行列に並ぶのがイヤだからであろうが、大きな荷物は隣の人に迷惑だし、ガサガサと音を出してしまう温床になってしまう。もちろん傘を客席に持ち込むのも論外である。


 ところで、オペラ上演中どうしても眠くなってしまった場合にはどうすれば良いか?彼女を横にして寝てしまったりしたらせっかくのエスコートが台無し、株は急暴落確実。前夜は睡眠をたっぷり取るなど体調に万全を期そう。開演前に食事をしてお腹がいっぱいになってしまうもの避けた方が良いであろう。カフェインの入った飴やガムも良いかも。幕間でシャンパンやワインを飲むのも優雅で良いが、お酒の弱い人は厳禁である。食事やお酒は終演後に!

でも、本当に眠くなってしまった時には、無駄な抵抗は止めた方が良いかも知れない。生の良い音楽を聴きながら寝るなんて最高の贅沢である。しかし、いびき、歯軋り、寝言などがNGなのは言うまでもない。コックリコックリしたり、隣の人に寄りかかるのもやめておきたい。




 モ−ツァルトの「魔笛」やベ−ト−ヴェンの「フィデリオ」を初演したウィ−ンのアン・デア・ウィ−ン劇場

 

 それから、一番厄介なのが拍手のタイミング。これはちょっと難しい問題である。基本的にはアリアと呼ばれる独唱曲や有名な2重唱、合唱曲や各幕の終了時には拍手をすることになっている。もちろん演奏が良くなければ拍手をする必要はないが、素晴らしい演奏にはぜひ拍手で応えたいもの。しかし最近は、アリアのあとでも幕のフィナーレでも、とにかく拍手が早すぎる人が目立つ。純粋に感動するあまり先走ってしまった、ということもあるではあろうが、ほとんどが、自分はこの曲を良く知っているんだぜ!という自己顕示欲からくるものと思われる。美しいオ−ケストラの後奏が聞こえなくなっては台無しだ。また、アリアごとに拍手をして良い、してはいけないというような暗黙のルールもあったりする。最初の頃は、周りの様子を見ながら自分が良い演奏だと思ったら一生懸命拍手をすれば良いし、いずれ慣れてくるものである。大人の紳士・淑女たるもの、特に最後が静かに(ピアノで)終わる曲の時にはオーケストラの最後の一音まで味わい、余韻を楽しみたいものである。




 カ−テンコ−ルを受けるエディタ・グルベロ−ヴァ

 

 また、オペラ独特の風習で、歌手に対して掛け声がかかることも多い。これにも男性、女性、複数と変化があるので注意しよう。男性歌手に対してはブラーヴォ、女性歌手に対してはブラーヴァ、複数に対しては、ブラーヴィと使い分ける必要があるのである。更には最上級の表現があって、ブラヴィッシモ、ブラヴィッシマ、ブラヴィッシミとなる。発音はいずれも“ラ”にアクセントがあり、しかも舌を巻いて発音しよう。日本では、10年くらい前までは誰に対してもブラーヴォ一辺倒だったが、最近ではキチンと使い分けている人も増えてきた。例えばイタリア人のソプラノ歌手にいくらブラーヴォと声をかけても絶対に自分に対するものとは思わない。

 ブラーヴォとは逆に良くない演奏に対してブーイングの声がかかることもある。日本では少ないが、ミラノ・スカラ座やパルマ・レッジョ劇場など聴衆が厳しいオペラハウスでは、日常茶飯事のようにブーイングの嵐が巻き起こる。また、最近のヨーロッパでは、歌手に対してではなく、過激で前衛的な舞台を作る演出家に対してブーイングを浴びせることも多い。 

 

 最後に演奏が終わると同時に席を立って帰ろうとする人も気をつけたい。帰りの電車やバスの時間が気になるのか、クロークで並びたくないために少しでも早く出たいのか、お手洗いが間にあわないのか、まあそれぞれの理由はあるであろうが、せめてあと23分待てないものか!歌手やアーティストから見ると拍手もせずに急いで帰る人たちはすごく目についてしまうもの。他の人たちがいくら一生懸命に拍手をしていても、“ああ、あんまり良くなかったのかな?”と思ってしまう。アーティストに対しても失礼だし、一生懸命拍手をしている観客にとっても前を横切られると著しく興醒めさせられる。余韻を味わう、余裕を愉しむのもオペラの醍醐味のひとつだと思うのだがどうだろうか?

 

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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第2回
 

長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第2回

 

序章  オペラってなに?(その2)

 

 

オペラを観る時の心得




着飾った紳士淑女の集うミュンヘン・オペラ・フェスティバル(ナツィオナル劇場)

 

まず、オペラ・ビギナーの人にとって1番気になるのは服装かと思われる。海外と国内ではかなり事情が違うので分けて考えよう。海外のオペラハウスへ行くと、タキシードに身を包んだ紳士がドレスで着飾った女性をエスコートして、というシーンを頻繁に見る。オペラは貴族のものという特権階級意識やオペラハウスは社交場、という昔の風習が残っているからであろう。しかし、ヨーロッパの人たちもいつも正装をしているわけではない。ザルツブルク音楽祭やウィーンのニューイヤーコンサートなど特別な時、プレミエと呼ばれる初演や初日などはほぼ全員が正装するが、地元のオペラハウスにオペラを観に行く場合、普通正装はしない。また、マチネ(昼の演奏会)とソワレ(夜の演奏会)も使い分けるし、チケットの料金体系によっても変わってくる。

 一方、日本でオペラを観に行く場合、社交界の風習も無く、過酷な通勤交通事情もあるので、正装がスタンダードという演奏会はほぼありえない。しかしTシャツにGパンというようなあまりラフすぎるのも場にそぐわないので、ネクタイくらいは締めて行こう。そして、ソワレの場合、スーツでもジャケットでも良いので、暗めの色が基本となる。また女性の場合、ドレスやスーツでも良いが、大和撫子の正装はやはり着物であろう。そもそもオペラを観に行くのは非日常の最たる行為。たまには目一杯のオシャレをして、楽しむ気持ちくらいは欲しいもの。

 

続いてオペラへ行く前の心構えについて。まずどんなオペラでも最低限あらすじくらいは押さえておきたいもの。勉強などと堅苦しく考えず、CDDVDであらすじや見所を予習しておけば、何倍も楽しく観ることが出来る。最近では図書館でも借りられるであろうし、1度でも音楽を聴いておけば必ず耳に残るはずで、感動が変わってくるに違いない。最近の日本でのオペラ公演は、ほとんど字幕があるので、予習する時間がなくても十分に楽しめると思う。しかし、あまり字幕に気を取られると歌手の細かい動きを見ることが出来なくなってしまうかも。

 さてオペラ当日だが、最低でも30分前には劇場に着くようにしよう。これから繰り広げられるスペクタクルに思いを馳せ、心穏やかにコーヒーの1杯でも飲むようにしたい。最近ではプレミエ初日の日は、開演の1時間くらい前に指揮者や演出家の無料レクチャーがある劇場も増えているので、それに参加出来ればベスト。お手洗いも済ませ、プログラムも購入し、5分前には席に座っているように。万一開演時間に遅刻をしてしまった場合、映画やスポーツ観戦であれば、いつでも入れるであろうが、オペラの場合、次の休憩の幕間までは入ることが出来ない。たった1分の遅刻で1時間半もロビーで待つなんて悲劇になってしまうかも知れない。

さあ、5分前に余裕を持って席へ着いた。オケピットに控えるオーケストラは、オーボエのA()の音を合図にチューニングが始まった。そして指揮者が登場し、いよいよオペラの開幕である。

 

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長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第1回
今週からしばらくの間、毎週月曜日に「世界のオペラハウス」と題した連載シリ−ズをスタ−トします。
お楽しみください!

 

長期連載シリ−ズ  世界のオペラハウス 第1

 

序章  オペラってなに?(その1)

 

 

オペラとは?

 
“オペラ”と聞くと「難しい」「言葉の意味が分からない」「長すぎて飽きてしまう」「敷居が高い」など、実際に体験する前から逃げてしまう人がほとんどのようだ。


しかし、オペラは決して難しいものではなく、地球上で最も贅沢な(高いという意味ではなく)エンターテイメントと呼べる極上の娯楽なのである。そしてこの快楽を知ってしまうと二度と抜け出すことは出来なくなってしまう中毒性が高いものである。音楽の素養などはほとんど関係がない。それどころか音楽に触れる機会が少ない人ほど重度に嵌ってしまう傾向にあるようだ。


これはオペラの正しい愉しみ方、最低限のマナーなどを知ってもらい、世界のオペラハウスをご紹介しながら、オペラの楽しみ方を学んでいただくオペラ養成講座である。数ヵ月後には月に一度は女性をエスコートして、または友人と一緒にオペラ鑑賞、ということが当たり前のように出来るはず()であろう。そのうちいずれは海外でオペラ経験も・・・なんて洒落こむかもしれないのである。何度も言うが、オペラは決して難しいものではなく、最高に贅沢で愉しいものということを肝に銘じて欲しい。そんな感じでご案内できれば、と思っている。




着飾った聴衆でにぎわうザルツブルク音楽祭

 
序章の今回は、オペラとは?という基本的なことから。

一言で言ってしまうと、音楽を中心にして演劇、美術、文学などをあらゆるものが融合した総合芸術である。まずは音楽的には歌手たちが主役を務め、そして指揮者とフル編成のオーケストラがそれをサポートする。演劇的には、歌手たちが舞台上で演劇俳優と同じように演技をしなければならない。美術的には舞台装置(デザイン)や衣装(ファッション)は聴衆の視覚に訴える大切なもの。文学的には、台詞、台本が文学的な要素で、シェークスピアやゲーテなども数多くの作品がオペラになっている。その他にも舞台舞踏であるバレエがオペラに必要になることも多い。このようにありとあらゆる芸術を集めたものがオペラと言えるであろう。オペラを知らずして、芸術を語るなかれ、である。


さてそのオペラの歴史だが、場所はルネッサンス末期イタリアのフィレンツェ。1597年にペーリの作った「ダフネ」が最古のオペラとされている。しかし、楽譜が現存しているものとなると、同じくペーリによる1600年に上演された「エウリディーチェ」ということになる。いずれにしても日本では東西に分かれて関が原で戦っていた時である。そして、現在でも上演される作品となるとルネッサンス期イタリアの大作曲家モンテヴェルディの「オルフェオ」が最も古い作品であろうか。この作品がオペラ黎明期における金字塔である。そして、オペラはフィレンツェからヴェネツィアへ、その後ナポリへ中心地が変わりながらイタリア中に広まっていった。また、当時のオペラほとんどがギリシャ神話の話で、貴族達ほんの一部の特権階級が楽しむものであった。

 
オペラ(イタリア語でOpera)の語源は、ラテン語のオーパス(Opus)の複数形。作曲家の作品番号を表す時にOp.という記号が使われるが、これがオーパスである。

 

 

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